先在性・教会の長子をめぐる論争

 

天界の秘義2435

 

「わたしはあなたが話した都はくつがえしはしません」。 これは、それで彼は死滅しないであろう、すなわち、善が内に存在している真理がそのもとに宿っている人間は死滅しはしないことを意味していることは、『都』の意義が真理であることから明白である(402、2268、2428番を参照)。人間は信仰の諸真理により再生して、教会となるという理由から、仁慈と信仰の中そのどちらが教会の長子であるかということが、最古代から論じられてきたのである。しかし信仰を最先端において、これを長子とした者たちはことごとく異端と誤謬に陥って、ついには仁慈を全く消滅させてしまったのである、たとえば、そうした信仰を意味しているカインについては彼は仁慈を意味しているアベルをついには殺してしまったと記されており、その後、同じく信仰を意味しているヤコブの長男ルベンについては、彼はその父の寝床を汚し(創世記35・22、49・4)、そのため無価値なものと考えられて、その長子の権はヨセフに与えられたと記されているのである(創世記48・5、歴代史前5・1)。

 

 

天界の秘義2435 []

 

このことが聖言に記されているところの長子の権にかかわる凡ゆる論争とまた凡ゆる律法の源泉であったのである。このような論争があった原因は、人間は仁慈を持っているだけ、信仰を持っているにすぎないことが知られていなかったということであり、またそれが同じく現今ですらも知られていないということであり、人間が再生しつつあるときは、仁慈がそれ自身を信仰に提示しており[差出しており]、またはそれと同一のことではあるが、善がそれ自身を真理に提示して、真理の中へそれ自身を入り込ませ、あらゆる微細な事項においても、真理にそれ自身を適用して、信仰を信仰であるようにさせており、かくて仁慈はたとえ人間にはそのように思われはしないものの、教会の長子そのものであることが知られていないということである(352、367番もまた参照)。しかしこれらの事柄は今後再三とり扱われるため、主の神的慈悲の下にわたしたちはこの主題については折にふれてさらに多くのことを言うことにしよう。

 

 

天界の秘義3289

 

善に属している仁慈か、または信仰に属している真理か、その何れかが先在しているかについての、その先在性にかかわっているのである。最初期から霊的な教会にはこの問について論争が行われた。

 

 

天界の秘義3324

 

「ヤコブは言った」。これは真理の教義を意味していることは、ヤコブの表象から明白であり、それは自然的な真理の教義であり(3305番)、またはそれと同一のことではあるが、真理の教義の中にいる者たちである。これらの節の中に本章の終わりに至るまでも取り扱われている主題は先在性の権利であり、すなわちそれは真理のものであるか、または善のものであるかにかかわる、またはそれと同一のことではあるが、それは真理の教義のものであるか、或は善の生命のものであるかにかかわる、または依然それと同一のことではあるが、信仰が教義の真理である限り、それは信仰のものであるか、または仁慈が生命の善である限り、それは仁慈のものであるか、にかかわる先在性の権利である。人間が自然的な認識から結論を引き出すときは、彼は、信仰が、それが教義の真理である限り、仁慈よりも先在していると信じるのである、なぜなら彼は教義の真理は如何ようにして入ってくるかを知っているが、しかし生命の善は如何ようにして入ってくるかを知らないからである、なぜなら前のものは外なる道により、すなわち、感覚的な道により入ってくるが、後のものは内なる道により入ってくるからである、またそれは[人間が信仰が仁慈よりも先在していると信じることは]かれは真理は善いことを教えるため、それは善に先在するとのみしか知ることが出来ないためであり、またそれは人間の改良は真理を通して、また真理に従って行われ、それで人間は善の方面ではその善に連結されることが出来る真理の量に比例して完成され、従って善は真理を通して完成されるためであり、さらに人間は真理の中にいると同時に善の中にいないにしても、真理の中にいて、真理から考え、真理から語り、しかもそれは外面的な熱意を以て行うことが出来、実に、彼は真理からでさえ己が救を信頼することが出来るためである。これらの、またその他多くの考察から人間は導かれて、彼が感覚的な自然的な人から判断するときは、信仰に属している真理が仁慈に属している善よりも先在していると想像するのであるが、しかしこれらの凡ては感覚的な自然的な人に対する外観に基礎づけられたところの、迷妄[妄想]から発する推理なのである。

 

 

天界の秘義3324[2]

 

 生命に属している善それ自身が先在しているのである、生命に属している善こそ真理(の種子)が播かれることが出来る土地そのものであり、土地のあるがままに種子が、すなわち、信仰の諸真理が受け入れられるのである。真理は実際先ず記憶の中に、納屋に種子が貯えられるように、または鳥がその作物の中に入り込んだままに、貯えられることは出来ようが、しかしそれは土地が整えられない限り、人間に属さないのであり、土地のあるがままに、すなわち、善のあるがままに、種子は発芽し、また結実するのである。しかしこの主題については多くの所ですでに示したことを参照されたい、が、それをここにまた、善とは何であるか、また真理とは何であるかを明らかにするために、また先在性は善に属していて、真理には属していないことを明らかにするために引用してみよう。

 

 

天界の秘義3324[3]

 

善は善に一致するもの以外のものはいかようなものも真理としては認めないため、善が連結されることができる真理を善自身のために作る(3161)。

 

信仰は信仰の生命、すなわち愛と仁慈の中に存在しないかぎり存在することは不可能である(379,389,654,724,1608,2343,2349)。

 

信仰の諸真理は善の中にいる者たちによってのみ受けられることができる(2343,2349)。

 

仁慈の中にいない者らは主を承認することは出来ない、かくて信仰のいかような真理も承認することは出来ない、もし彼らがそのような承認を告白するなら、それは内なるものを持たない外なるものであるか、または偽善から発している(2354)。

仁慈が存在しない所には信仰は存在しない(654,1162,1176,2429)

 

知恵、理知、記憶知は仁慈の息子である(1226)。

 

主に対する愛は主に「似た形」であり、隣人に対する仁慈は主の「映像」である(1013)。

 

主と隣人に対する愛は天界そのものである(1802、1824、2057、2130、2131)。

 

人間は善の中にいない限り、真理の承認も、信仰も不可能である(2261)。

 

人間は真理の情愛[真理に対する情愛]により再生する、彼は再生すると、善の情愛[善に対する情愛]から行動する(1904)。

 

 

天界の秘義3325[2]

 

 『長子の権』により意味されているところの先在的なもの、または先在性により、時間の先在性のみでなく、度の先在性も意味されており、すなわち、善か、または真理か、その何れが主権を持たねばならないかにかかわる先在性が意味されているのである。なぜなら真理はそれが善に連結されない中は、常にそうしたものであり、またはそれと同一のことではあるが、真理の中にいる者たちは常にそのようなものであり、そのため、彼らは再生しない中は彼らは真理が善よりも先在していて、善よりも優れていると信じているのであり、また実際それはその時そのようにも見えるのである。しかし彼らの中に真理が善に連結してしまったときは、すなわち、彼らが再生したときは、彼らはそのとき真理は後在的なものであって、劣ったものであることを見、また認めもして、そのとき彼らの中には善が真理を治める主権を得るのであり、そのことが父イサクがエソウに語ったところにより意味されているのである―

 

 見よ、地の肥えたものは、また上からしたたり落ちる天の露はあなたの住居となるであろう、あなたは剣によって生き、あなたの弟に仕えるであろう、が、あなたが主権を得るとき、あなたはあなたの首から彼の軛を砕き去るようになるであろう(創世記27・39、40)。

 

 

天界の秘義3325[3]

 

しかし教会の中には再生しつつある者よりも再生していない者が多くいるため、また再生していない者は外観から結論を引き出すため、それで先在性は真理に属しているるか、または善に属しているかについて、古代からでさえも絶えず論じられてきたのである。再生していない者やまた十分に再生していない者らのもとでは、真理が先在的なものであるという意見が支配してきたのである。なぜなら未だ彼らは善を認識しないからである。そして人は善を認識しない限り、これらの事柄については蔭の中に、または無知の中にいるのである。しかし再生した者たちは、善そのものの中にいるため、そこから生まれてくる理知と知恵から善とは何であるかを認め、またそれは主から発し、内なる人を通して外なる人へ流れ入り、しかもそれは不断に行われているものの、人間はそれを全く意識していないことを認め、また善は記憶の中に在る教義的なものの諸真理にそれ自身を接合させており、従って善は、たとえ以前ではそのように見えはしなかったものの、それ自身に於いては先在的なものであることを認めることが出来るのである。それでこうしたものがその一方がその他方のものよりも先在し、また優れていることにかかわる論争の源泉であったのであり、そのことがエソウとヤコブにより、またタマルによるユダの息子たちのペレツとゼラにより(創世記38・28〜30)、また後にはヨセフの息子たちのエフライムとマナセにより(創世記48131720)表象されたのである。しかもそれは霊的な教会は真理を通して善に導入されなくてはならず、またそのときは真理の情愛の中に隠れているような善の認識とまたそこに隠れているだけの善の認識を除いては善の認識に欠けていなくてはならず、そうした時には善はかの情愛[真理に対する情愛]の中に同時に存在していて善であると信じられているところの自己への愛と世への愛との歓喜から区別されることが出来ないためである。

 

 

天界の秘義3325[4]

 

 しかし善が長子であることは、すなわち主に対する愛と隣人に対する愛の善が長子であることは―なぜならこれらの愛から発する善以外には善はないからであるが―善には生命が在るが、しかし真理には善から発している生命以外には何ら生命はないという事実から明白であり、善は真理に流れ入って、それを生かしていることは善と真理とについて前に述べられもしまた示されもしたことから充分に明らかとなるであろう(3324番)。それで主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちはすべて『長子』と呼ばれており、これらの者はまたユダヤ教会では最初に生まれたものにより表象されたのであり、すなわち、関連的な意義ではそれにより意味されているのであるが、それは主は長子であられ、最初に生まれた者はことごとく主に似た形と主の映像であるためである。

 

 

天界の秘義3336[2]

 

 この先在性と卓越性との実情がいかようになっているかがさらに明白となるために、さらに若干言っておかなくてはならない。いかようなものも、それを人間の記憶の中へ導入してくれる何らかの情愛または愛が存在しないかぎり、それはそこへ到底入って、そこに止まることが出来ないことは容易に認めることが出来よう。もし情愛が存在しないなら、またはそれと同一のことではあるが、愛が存在しないなら、観察は起らないであろう。この情愛、または愛に、入ってくるものがそれ自身を連結させるのであり、連結すると止まるのであり、このことは、以下の事実から明白である、すなわち、類似した情愛または愛が帰ってくると、その事柄それ自身も再起して、前に類似した情愛または愛により入ってきた他の事柄とともに示されるのであり、しかもそれが連続して示されてくるのである。そこから人間の考えが生まれ、その考えから言葉が生まれてくるのである。同様にまたその事柄それ自身が帰ってくるとき、もしそのことが感覚の対象により、または思考の対象により、または他の者の談話により行われるなら、その情愛もまた―その情愛とともにその事柄は以前入ったのであるが、その情愛もまた―再現されるのである。これは経験が教えていることであり、たれでも反省するならそのことを確認することができよう。

 

 

天界の秘義3336[3]

 

 真理の教義的な事柄もまた同じように記憶へ入ってくるのであり、最初それを導入するものは、前に言ったように(3330番)、色々な愛の情愛である。仁慈の善に属している純粋は情愛は、そのとき認められはしないが、しかしそれでもそれはそこに現存しているのであり、そしてそれがそこに現存していることが出来る限り、それは主により真理の教義的な事柄に接合され、また接合されて止まるのである。それでその人間が再生することが出来る時が来ると、主は善の情愛を吹き込まれ、それを通して、主によりこの情愛に接合されていた事柄をもかき立てられるのであり[喚起されるのであり]―この事柄は聖言に『残りのもの』と呼ばれている―次に、この情愛により(すなわち、善の情愛により)、継続的な段階によって主は他の愛の情愛を遠ざけられ、従ってまたその情愛に関連しているものをも遠ざけられるのである。かくして善の情愛が、または生命の善が主権を持ち始めるのである。それは実際前には主権を持っていたのであるが、しかしそのことは人間に明らかになることは出来なかったのである。なぜなら人間は自己への、また世への愛の中にいる限り、純粋な愛に属している善は現れないからである。このことからエソウとヤコブについて歴史的に述べられている事柄によりその内意に意味されていることが今や認められよう。

 

 

天界の秘義3863[2]

 

 古代人の間では、信仰のものである真理か、または愛のものである善か、そのいずれが教会の長子であるかということが論争の主要点であったのである。信仰のものである真理が長子であると主張した者たちは外なる外観から論じて、それが長子であると決定したのである、なぜなら真理が最初に学ばれ、また学ばれねばならないからであり、またそれにより人間は善へ導き入れられるからである。しかし彼らは善が本質的には長子であって、それが外なる人を通して導き入れられた真理を採用し、受け入れるために、それが内なる人を通して主により秘かに注ぎ入れられることを知らなかったのであり、また彼らは善の中に主から発している生命が存在しているが、しかし真理の中には真理が善を通して得ている生命以外には生命は存在しておらず、かくて善は真理の霊魂であって、霊魂がその身体を自らのものとし、それを身につけるように、善は真理をそれ自らのものとし、それを身に着けることも知らなかったのである。このことから私たちは、外なる外観に従うと、人間が再生しつつある間は真理が第一位に在って、いわば長子であることを認めることはできるが、しかしながら善が本質的には第一位に在って、長子であり、人間が再生したときは、最初におかれるのである。そのことが真実であることは前の3539、3548、3556、3563、3570、3576、3603、3701番に見ることができよう)。

 

 

天界の秘義3995[2]

 

 真理の善とは、または信仰の仁慈とは何であるかについて若干述べてみよう。人間は再生しつつあるときは信仰のものである真理が外観的には最初に来て、仁慈のものである善が外観的にはその後に来るが、しかし人間が再生したときは、そのときは仁慈のものである善が明らかに先行して、信仰のものである真理は明らかにその後に来るのである(前のものは外観であり、後のものは真の真理であることは、前の3539、3548、3556、3563、3570、3576、3603、3616、3701番に見ることができよう)。なぜなら人間は再生しつつあるときは、彼は真理から善いことを学ぶため、彼は学んだその真理から善いことを行うが、それにも拘らずそのことを遂行するものは内に在る善である。なぜなら善は主から内なる道によりすなわち霊魂の道により流れ入ってくるが、真理は外なる道により、または身体の道である感覚の道により流れ入ってくるからである。後の道により入ってくる真理は内に在る善により採用されて、善に連結され、しかもそれがその人間が再生してしまうまでさえも行われるのである。そのときになると革命が起って、真理が善から行われるのである。このことから真理の善とは何であるかが、また善の真理とは何であるかが明白である。このことが今極めて多くの者が仁慈の諸善は信仰の果実であると言っている理由である、なぜなら再生の初めにはそのように見えるのであり、彼らはその外観からこの結論を引き出すからである。また彼らは他のことは知りもしないのである、なぜなら再生しつつある者は僅かしかおらず、また再生したところの、すなわち、善の情愛の中におり、または仁慈の中にいるところの人間以外にはたれ一人そのことを知ることは出来ないからである。善の情愛から、または仁慈からそのことは明らかに見られ、また認められることが出来るが、しかし再生していない者は善の情愛、または仁慈とは何であるかを知りさえもしないで、それについては、彼らには無縁なもの、または彼らの外側に在るものについて論じるように論じており、そうした理由から彼らは、信仰は仁慈から発しているにも拘らず仁慈を信仰の果実と呼んでいるのである。しかしながら、単純な者たちには、もしその者たちが仁慈に生きさえするなら、どちらが先在的なものであり、どちらが後在的なものであるかを知ることはたいして重要なことではない。なぜなら仁慈は信仰の生命であるからである。

 

 

天界の秘義4925

 

最古の時代から仁慈のものである善と信仰のものである真理との中でその何れかが最初に生まれたものであるか、ということが絶えず論争の主題となってきたのであり、善は人間が再び生まれて、教会になされつつある間は現れないで、内的な人の中に隠れており、人間が再び生まれてしまうまでは、外なる、または自然的な人の知覚の中へは明らかに落ち込んでこない一種の情愛の中にのみそれ自身を明らかにするため―それに反し真理はそれが感覚を通して入って来て、それ自身を外なる、または自然的な人の記憶の中に貯えるため、それ自身を明らかに示しているのであるが―そのため多くの人物は真理が最初に生まれるものであると誤って考え、ついには真理が教会の本質的なものであり、彼らのいわゆる信仰という真理は仁慈のものである業がなくても救う力を持っているほどにも本質的なものであるとすら誤って考えるようになったのである。

 

 

天界の秘義4925[2]

 

 この一つの誤りから他の非常に多くの誤りが派生してきて、教義のみでなく、生命にも感染したのである、例えば人間はいかような生活をしようとも、たんに信仰さえ持っていさえすれば救われる、極悪の者でも、死ぬ間際にでも信仰のものであるような事柄を告白するなら、天界へ迎え入れられる、たれでも、その生活はいかようなものであったにしろ、ただ恩寵から天界へ迎え入れられることができるといったものである。こうした教義を奉じる結果、彼らはついには仁慈とは何であるかを知らなくなり、またそれを意に介しなくなり、ついにはそのようなものが在ることも信じなくなり、従って天界または地獄の在ることをも信じなくなるのである。その理由は仁慈を欠いた信仰は、または善を欠いた真理は何ごとも教えないということであり、それが善から遠ざかるに従って、益々人間を愚物にしてしまうのである。なぜなら善の中へ、また善を通して主は流れ入られて、理知と知恵とを与えられ、かくて高い精神の視野を与えられ、また何かの事柄がそのようなものであるか、ないかについても認識を与えられるからである。

 

 

天界の秘義4925[3]

 

なぜなら善はその人間が再生した後になるまでは先在的なものであることが承認されないからである、なぜなら彼は再生したとき、善から活動し、善から真理とその性質とを顧慮する[認める]からである。

 

 

天界の秘義4926

 

この主題については直ぐ前に示されたことを参照されたい(4925番)、すなわち、善は事実上長子であるが、真理は外観的には長子であるということである。このことはさらに人間の身体の中のいくたの用と肢体から説明することができよう。肢体と器官とは先在的なものであって、そのいくたの用はそれに続いているかのように見えるのである、なぜなら前のものが先ず目に示され、またその用の前に知られるからである。にも拘らず用が肢体と器官よりも先在しており、この後のものは用から発し、それで用に従って形作られており、いな、用そのものがそれらのものを形作り、用自身に適応させているのである。それがそうでない限り、人間における一切の物は決してかくも調和して共力し、一つのものとはならないであろう。善と真理においても同じである、すなわち、真理が先在しているかのように見えるが、しかしそれは善である、なぜなら善が諸真理を形作って、善自身に諸真理を適応させるからである、それでいくたの真理はそれら自身において観察されるなら、それらは形作られた善、または善の形以外の何ものでもないのである。善に対するいくたの真理の関係はまた用に対する身体の中のいくたの内臓と繊維の関係に似ており、善はそれ自身において観察されるなら用以外の何ものでもないのである。

 

 

天界の秘義5893[2]

 

このかんの実情は以下のごとくである。善が働くためには自然的な心の中に真理が存在しなくてはならないのであり、真理は純粋な愛のものである情愛により導入されなくてはならないのである。何であれ人間の記憶の中に在るものはことごとく何らかの愛により導入されて、そこにその愛と連結してとどまっているのである。信仰の諸真理もまた同じであり、もしこの諸真理が真理を愛する愛により導入されているなら、その諸真理はこの愛と連結してとどまっているのである。それらが連結すると、そのときは以下のようなことが起こるのである。もしその情愛が再現するなら、その情愛と連結している諸真理も同時に現れてくるのであり、もしその諸真理が再現するならば、その諸真理と連結しているその情愛そのものも同時に現れてくるのである。それで人間の再生の間には―再生は成人期に行われるのである、なぜならそれ以前では人間は信仰の諸真理については自分自身からは考えないからである―彼が彼自身に真理であると印象づけた諸真理の中に留めおかれることにより、またその諸真理が連結している情愛におけるその諸真理により、主から天使たちにより支配されており、そしてこの情愛は、すなわち、真理を愛する情愛は善から発しているため、彼はそのようにして徐々に善へ導かれるのである。

 

 

 

天界の秘義6272

 

「彼はその手をたがいちがいに伸ばした」。これは、かくて、秩序に従わないで、を意味していることは、『手をたがいちがいに伸ばすこと』の意義から明白であり、それは、秩序に従わないで、である。なぜならそのことによりかれは弟を長子とし、逆に長子を弟とし、従って信仰の真理を先在的なもの、高いものとし、仁慈の善を後在的なもの、低いものとするからである。なぜなら『生得権』が先在性と卓越性とを決定するからである(3325番を参照)。このことがいかに多くの悪を教会に導き入れるかは明白である。なぜならそのことにより教会の人々は善とは何であるかを知らないし、かくて真理とは何であるかも知らないような不明な状態に陥るからである。なぜなら善とは焔のようなものであり、真理はその焔から発する光のようなものであるからである。すなわち、もし焔を取り去るなら、光もまた消滅するのであり、もし何らかの光が現れるにしても、それは焔から発していない、人を迷わせる光のようなものである。そこから諸教会は互に他と抗争して、真理について論争し、一つの集会は何かの事柄が真であると主張すると、他の集会はそれは誤っていると主張するのである。そして悪いことは、一度彼らが教会の集まりで信仰を第一位におくと、次に信仰を仁慈から分離して、仁慈を比較的無価値なものとし、かくて生活を無視しはじめるが、人間は生来こうしたことに陥る傾向を持っているのである。ここから教会は死滅してしまうのである。なぜなら人間のもとに教会を作るものは生活[生命]であって、生活のない教義ではなく、かくて卓越した信仰であるところの信頼でもないからである。なぜなら純粋な信頼は仁慈の中にいる者たちのものにのみ在り得るのであって、仁慈から信頼の生命が発しているからである。(さらに仁慈の善は事実上長子であり、すなわち、第一位に立っていて、信仰の真理はそのようなものとして見えるにすぎないことは前に見ることができよう、3324、3539、3548、3556、3563、3570、3576、3603、3701、4243、4244、4247、4337、4925、4926、4928、4930、4977番)。

 

 

 

真の基督教336

 

信仰或いは真理は時間的には最初であるが、仁慈あるいは善は目的からいって第一次的のものであり、目的からいって第一次的なものは、重要さに於いて最初のものである故、最初に生まれたものである。これに反し、時間的に最初であるものは実質的には最初のものではなく、ただ単に外見的に最初であるに過ぎない。