戦車
天界の秘義5321[3]
『戦車』は聖言に極めてひんぱんに言われているが、しかしほとんどたれ一人それが善と真理との教義的な事柄を意味し、また教義的な事柄にぞくしている記憶知を意味していることを知らない。その理由は戦車が言われているとき霊的なものは何一つ考えに入ってこないで、ただ自然的な歴史的なもののみが入ってくるにすぎないということであり、そのことは戦車の前の馬にも言われるのであるが、それでも聖言の『馬』によっては理解のいくたの事柄が意味され(2760−2762、3217番を参照)、それで『戦車』により教義的な事柄とそれにぞくした記憶知とが意味されているのである。
天界の秘義5321[4]
『戦車』は教会の教義的なものを、また記憶知を意味していることはわたしには他生で再三見られる戦車から明白となったのである、低地の右側の近くにまた或る一つの場所があって、そこには戦車と馬が、秩序正しく置かれたうまやとともに現れており、そこには世では学問があって、生命を学問の目的として認めた人々が歩いたり、また話し合っているのが見られるのである。このような物は高い諸天界にいる天使たちから彼らに現れるのである、なぜならこの天使たちが理解の、教義の、知識の事柄について語り合っていると、こうした物がそこの霊たちに現れてくるからである。
天界の秘義5321[5]
このような事柄が『戦車』と『馬』により意味されていることは、エリアが火の戦車と火の馬とによって天に運ばれて行くように見え、彼とまたエリシャとが『イスラエルの戦車、その騎手』と呼ばれたという事実から非常に明らかであり、列王記の下巻に以下のように記されているのである―
見よ、火の戦車と火の馬とが彼らの間に来た、エリアは旋風にのって天へ上った。エリシャはそれを見て、叫んだ、父よ、父よ、イスラエルの戦車よ、その騎手たちよ(列王記下2・11、12)。
またエリシャについても同書に―
さてエリシャは病んで、そのために死んだ、イスラエルの王ヨアシはかれのもとへ来て、その顔の前に泣いて、言った、父よ、父よ、イスラエルの戦車よ、その騎手たちよ(列王記下13・14)。
かれらがそのように呼ばれた理由は、エリアによってもエリシャによっても主の聖言の方面が表象されたということである(創世記18章の序と2762、5247番を参照)。聖言そのものは主として善と真理との教義である、なぜならそこから教義の凡ゆるものが発しているからである。エホバに目を開かれた少年に、山が『エリシャの周りに火の馬と戦車とに満ちている』ように見えたのも同じ理由からであった(列王記下6・17)。
天界の秘義5321[6]
『戦車』は教義的なものを意味し、『馬』は理知的なものを意味していることもまた聖言の他の記事から明白である、例えばエゼキエル書には―
あなた方はわたしの食卓で馬と戦車を、丈夫[力ある者]と凡ゆる戦士を食べて飽きなくてはならない。そのようにわたしは諸民族の間にわたしの栄光をおくであろう(エゼキエル39・20、黙示録19・18)。
ここには主が来られることがとり扱われているのである。ここの『馬と戦車』により馬と戦車が意味されていないことはたれにも明らかである、なぜなら彼らは主の食卓でこうしたものを飽食するはずはなく、理解の幾多のものと善と真理との教義の幾多のものであるところの、『馬と戦車』により意味されている事柄を飽食するはずであったからである。