宣教師

 

1.嘲笑を買う

 

 

 

 

 

 

1.嘲笑を買う

 

 

真の基督教135

 

私はこれを認めると、三人の神の考えを抱く人々との会話に入り、語った、「これは何という奇怪な考え方でしょうか。あなた方はそれを何処から考えられましたか。」彼らは答えた、「それは三であって一つである神に関わる私たちの概念によりますが、しかし私たちはこの考えを言葉に現しません、何故なら私たちは語る時は、何時も明瞭に神は一人であると語っているからです。もし私たちの心にそれと異なった考えがあるにしましても、それが前面に出て来て、神の単一性を言葉で分割しないならば、それをそこにそのままにしておきます。しかしそれはそこに在るものですから、時々前面に現れてきます。もしその時私たちが心の中をすっかり語りますならば、三人の神があると語ることでしょう。然し私たちはこれを聞く者から嘲笑を買うのを恐れて、それを警戒しているのです。

 

 

 

真の基督教183

 

「ユダヤ教徒であれ、異教徒であれ、凡て基督教会の埒外にある者は、基督教徒は三人の神を信じているとの理由によってこれを嫌悪している。基督教の宣教師達はこの事を知っており、それ故、ニケヤ及びアタナシウス信条に従って、三人格の三一性を口にしないように非常に注意を払っている。何故なら、若し彼らはそのように語るならば、人から避けられ、嘲笑されることを知っているからである。」

 

 

 

真の基督教632

 

「カトリック的宗教によって、三人の神があり、あるいは三人の主があると語ることは禁ぜられている」

 

 

 

続最後の審判とバビロンの滅亡76

 

これが世にいるときですらアフリカ人の性格である故、現在、彼らに啓示がなされ、それは中央から始まって、周りに伝えられているが、しかし海には達していない。彼らは彼らの主を天地の神として承認し、訪れて来る地方の修道僧や、また三重の神性とただ考えるのみで救われると言う基督教徒を笑って、言う、礼拝をしている者で、その宗教に従って生きない者は無い、それに従って生きない者は、天界から何物も受けないから、愚鈍で、邪悪なものになるに違いない、と。彼らはまた巧妙な邪悪を愚鈍と呼んでいる。なぜならその中には生命はなくて死があるからである。私は天使たちがこの啓示のために喜んでいるのを聞いた。なぜなら信仰の事柄の上に引かれていた盲目のカーテンによってこれまで閉じられていた人間の合理的なものとの連絡が、その啓示により彼らのために開かれたからである。「主に関わる、また聖言に関わる新エルサレムの教義」と「新エルサレムのための生活の教義」の中に今や公にされた真理がその国に住んでいる者たちに天使的な霊により口授されていることが天界から私に言われたのである。

 

 

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP99

 

神性の三人格が承認されるとき、決して一人の神を承認することは在りえない。三人格を承認することがマホメット教徒を、ユダヤ人を、また他の者たちを、キリスト教を受け入れることから遠ざけたのである。各々の者はことごとくその者の神を知らなくてはならない、そのことはその者が神に連結して、救われるためである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP52

 

キリスト教徒は神性の三人格についていかような種類の考えを抱いているかを確かめるために、調べられた、以下のことが明らかにされたのである、すなわち、彼らは色々な考えを持っており、或る者は、一人の人格を他の人格の近くに置いて共に協議しており、第三の人格がその二人の人格から送り出されている、と考えており、或る者は、共になって話し合っていて、キリストが仲介役を買って出ておられる、と考えており、或る者はその三人格を継続した秩序においており、或る者は他の方法においているが、しかしこれらは三人の神々であるため、マホメット教徒と異教徒がその場に現われると―この者たちはキリスト教徒の考えを認めているため―彼らは恥じ入って、警戒するのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80

 

 ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略)

 キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]を殆ど考えることは出来ないし、認めることも出来ない(このことは多くの者の経験から示されることが出来よう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることは出来ないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP99

 

神性の三人格が承認されるとき、決して一人の神を承認することは在り得ない。三人格を承認することがマホメット教徒を、ユダヤ人を、また他の者たちを、キリスト教を受け入れることから遠ざけたのである。

 

 

 

霊界日記4623小

 

基督教徒は三人の神の観念以外の観念を持ってはいない、なぜなら彼らは三人格を承認して、父は神であり、子も神であり、聖霊も神であるものの、それでも一人の神がいるのである、と言っているからである。かくて彼らは彼らの中に数人の神の観念を持ってはいるが、そうした観念は異教徒は持ってはいないのである。それで基督教徒らの観念を一人の神に、すなわち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである、なぜなら主の中に全三一性が完全なものとなっているからである。

 

 

 

天界の秘義4754

 

イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

 

「彼は我々の兄弟であり、肉身であるから」(出エジプト37・27)。

これは、彼らから発しているものが受け入れられるからである、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『兄弟』の意義は善から生まれた血縁関係であり(3815番)、『肉身[肉]』の意義は両方の意義における自分自身のものであり(3813番)、かくてそれは教会のものである者らから発しているため、受け入れられ、またそれは単純な善にいる者たちにより受け入れられたため、これらの者によっても受け入れられたということである。なぜならイシマエル人は単純な善にいる者たちを表象し、ヨセフの兄弟たちは仁慈から分離した信仰の中にいる教会を表象しているからである。単純な善の中にいる者たちは、主の人間的なものは神的なものであり、また人間は救われるためには仁慈の業を為さなくてはならないことを承認するのである。分離した信仰の中にいる者たちはそのことを知っており、それで彼らはこの信仰を凡ゆる者の前に強く主張はしないのであり、単純な善の中にいる者たちの前には全く主張はしないのであるが、そのことは主として彼らは常識に反したことを敢えて語らないためであり、また彼らはそのようなことを主張して自分自身の威厳と利得とを失ってしまうためである。なぜならもし彼らが仮にもこれらの真理を否定するなら、単純な善の中にいる者たちは彼らについて彼らは愚物であると言うからである。なぜなら単純な善の中にいる者たちは愛とは何であるか、愛の業とは何であるかを知ってはいるが、それらのものから分離した信仰の何であるかを知りはしないからである。業と対立した信仰を支持し、また主の人間的なものと神的なものとの区別について論じる議論を彼らは訳の分からぬ詭弁と呼ぶのである。それで彼らが受け入れられようとしてまた彼らから発しているものが受け入れられるため、分離した信仰の中にいる者らは進んで譲歩するのである、なぜなら、もしこれらの真理が消滅するなら、彼らは利得も栄誉も受けはしなくなるからである(4751番)。

 

 

 

霊界日記4777

 

次に、漠然とした幻においてではあったが、いかような方法で、その天界の教義がアフリカの中で進展するかが示された、すなわち、その場所からアフリカの内部の方へ進展はするが、依然、その中央までは達しないのであり、そのさい、地中海にさらに接近している、アフリカ内部にいる者たちのもとへ進路をかえ、かくて長い距離を進みはするが、海岸までは進みはしないのである。次に、しばらくして、内部の地帯を通ってその進路を元の方へ向けてエジプトまでも達し、また、さらにそこから進んで、トルコ政府の下に在るアジアの或る地域にたっし、また周囲のアジアの或る地帯にも達するのである。ここから、天使たちは以下のことで喜んだのである、即ち、主が来られることが今や切迫しており、教会が―それは今では欧州では死滅しつつあるが、それが―アフリカにおいて新しくされ、そのことが主のみにより、啓示により、行われはするが、基督教徒から宣教師たちによっては行われはしないのである。その国々の人々もまた基督教の宣教師たちからいかような教義も受け入れないように警戒されはするが、しかし実にその宣教師の言葉を聞きはするが、その者らを信じてはならないのである。そうした理由からまた、かの天界の教義はその海岸の近くにいる者らに明らかにはされないのである。なぜなら基督教徒はそこへ来て、スキャンダル[名折れになること]を持ち込むからである。なぜならこれらの者は凡ての者にもまさって何一つ信じてはいないし、また不敬虔な生活を送っているからである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡56〔2〕

 

同じように彼らは修道僧を派遣し、異邦人を彼らの宗教上の所信にいざのうが、それも彼らを己が支配に服従させるためである。