生命

 

 

 

 

天界の秘義1555

 

信仰の諸真理と諸善とにかかわるいくたの知識により得られるものは理知の光と呼ばれているが、しかし知恵の光はそこから得られる生命の光である。理知の光は知的な部分または理解に関わっているが、知恵の光は意志の部分または生命にかかわっている。

 

[2]いかようにして人間は真の知恵に至るかを知っている者は、たとえいるにしても、僅かしかいない。理知は知恵ではなく、知恵に導くのである。なぜなら真で善いことを理解することは真で善いものであることではなく、賢いことが真で善いことであるからである。知恵は生命にのみ述べられるのである、すなわちその人間はそうした者であると言われるのである。人間は知ることを手段として、すなわち知識(scientae et cognitiones)を手段として知恵に、または生命に導入されるのである。人間各々の中に意志と理解の二つの部分があり、意志は第一次的な部分であり、理解は第二次的な部分である。死後の人間の生命はその意志の部分に順応していて、その知的な部分には順応していない。意志は人間の中に幼少期から子供時代にかけ主により形成されつつあり、それは密かに注ぎ入れられる無垢により、また両親、乳母、同じ年頃の子供たちに対する仁慈により、また人間には全く知られていないが、天的なものである他の多くのものにより行われるのである。こうした天的なものが先ず人間の中へ幼少期と子供時代に徐々に(秘かに)注がれない限り、かれは決して人間となることはできないのである。このようにして最初の面が形成されるのである。

 

[3]しかし人間はまた理解を与えられない限り、人間ではないため、意志のみが人間を作るのでなく、理解が意志とともになって人間を作るのであり、そして理解は知識によらなくては決して得られることはできないのであり、それでかれは子供時代から、徐々にこれらの知識に浸透されなくてはならない。このようにして第二の面が形成されるのである。知的な部分が知識を、とくに真理と善とにかかわるいくたの知識を教えられると、そのとき初めて人間は再生されることができるのであり、そしてかれが再生しつつあるとき、いくたの真理といくたの善とは、かれが子供時代から主により与えられていた天的なものの中に知識を手段として、主により植えつけられ、かくてかれの知的なものはかれの天的なものと一つになるのであり、そして主がこのようにこれらのものを連結されたとき、その人間は仁慈を与えられて、かれはその仁慈から行動しはじめるのであり、この仁慈は良心にぞくしている。このようにしてかれは初めて新しい生命を受けるのであって、これは徐々に行われるのである。この生命の光が知恵と呼ばれており、それはそのとき第一位を占めて、理知の上におかれているのである。このようにして第三の面が形成されるのである。人間がその身体の生命の間にこのようになると、そのときはかれは他生で絶えず完成されつづけるのである。こうした考察により理知の光とは何であるか、知恵の光とは何であるかが示されるであろう。

 

 

天界の秘義3570[4]

 

 人間の霊魂は母の卵細胞の中に始まり、その後彼女の子宮の中で完成され、そこで柔かい身体で身を包まれ、しかもそれはその身体を通してその霊魂がその生まれて入って行く世に適したように活動することが出来るといった性質を持っているのである。このことは人間が再び生まれる時も、即ち、彼が再生しつつある場合も同じである。彼がその時受ける霊魂は善の目的であって、それは合理的なものの中に初まり、最初はそこに卵細胞におけるように初まり、後にはそこで子宮内におけるように、完成され、この霊魂が身を包むそのか弱い身体は自然的なものとその自然的なものにおける善であり、それは、霊魂の目的に順応して従順に活動するようなものとなるのであり、その中に在る諸真理は身体の中の繊維のようなものである、なぜなら真理は善から形作られるからである(3470番)。ここから人間の改良の映像は子宮の中で人間が形作られる経過の中に示されていることが明らかであり、そしてもしあなたたちが信じられるなら、人間を形作り、それから主から発している天的な善と霊的な真理との各々を継続的に受け入れる力を与え、しかもそれが性質と量においては正確に人間が獣として世の目的を注視しないで、人間として天界の目的を注視するに順応していることもまたその主から発している天的な善と霊的な真理なのである。

 

 

 

 

天界の秘義3623

 

「なぜわたしは生命を持ちますか」。これは、かくて連結は存在しないであろう[連結しないであろう]、を意味していることは、『生命』の意義から明白であり、それは諸真理と諸善とを通して連結することである、なぜなら共通の根幹からまたは純粋な源泉から発している真理が自然的な真理に接合されることができないと、そのときは自然的なものも合理的なものの真理に接合されはしないし、かくて合理的なものにはその生命は生命としては見えなくなり(3493、3620番)、ここから『なぜわたしは生命を持っていますか』という言葉により、かくて連結は存在しないであろうということが意味されるからである。ここにもまた他の記事にも生命が複数形で言われている理由は、人間の生命には二つの能力が存在しており、その中のその一つは理解と呼ばれて、真理にぞくしており、他の一つは意志と呼ばれて、善にぞくしており、生命のこの二つの生命はまたは能力は、理解が意志のものとなるとき、または、それと同一のことではあるが、真理が善のものとなるとき、一つのものになるということである。これがヘブル語で再三単数形で『生命』と言われ、また複数形で『生命』と言われている理由である。

 

(中略)

 

『生命』について言えば、それは、複数形では、意志にぞくしているものと理解にぞくしているものとを意味しており、従って、善にぞくしているものと真理にぞくしているものとを意味している、なぜなら人間は、善と真理とがなくては、またその中に宿る生命がなくては人間でないからには、人間の生命は主から発している生命を宿している善と真理以外の何ものでもないからである。なぜなら人間はこれらのものがないならいかようなことも意志する[欲する]ことはできないし、いかようなことも考えることはできないからであり、その意志する[欲する]能力はことごとく善いものから、または良くないものから発しており、考えるかれお能力は真のものからまたは真でないものから発しており、ここから人間は生命[複数形]を持っていて、その生命はかれの考えることがかれの意志することから発している時、すなわち、信仰にぞくしている真理が愛にぞくしている善から発している時、一つの生命となるのである。

 

 

天界の秘義5070

 

 義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。

 

悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように―とくにこれらの者自身には―実さい見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜならかれらはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることができよう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在りえないからである。それで問題の人物は狂人にぞくしているような生命以外の生命は持たないのである。