聖人崇拝

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.ドレックス教授

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義7272[3]

 

また一例として祈願の際、死人に聖者として近づいて、これを崇め、またその像を崇めている者たちを考えられたい。こうした礼拝の悪は誤謬の悪である。誤謬の悪を行う者らは凡て、誤謬が真理であると信じ、従って悪は悪ではないか、またはとがめられるものではないと信じているのである。同様に罪は人間によっても赦されることが出来ると信じている者も、また自分たちはいかような罪の中にいても、すなわち、いかような精神的な醜悪さと腐敗との中にいても、天界へ入れられることが出来ると信じている者もそのように信じているのである。約言すると、誤謬の悪は信仰の誤謬と礼拝の誤謬のようにも数が多いのである。こうした悪は(人間を)地獄におとしはするが、それでも悪から発している悪ほどには甚しくはない。悪から発している悪は自己と世への愛から起こってくる欲念から発しているものである。

 

 

真の基督教822

 

凡ゆる人間はその両親から悪を受け継いでいるがこの悪は何処に宿っているかは少数の者にしか知られていない。それは所有への愛と支配への愛とに宿っている。この後の愛は、もし抑制されないならば凡ゆるものを支配する欲念となり、遂には神として呼び求められ、礼拝されることを欲する。この愛がアダムとエバを欺いた蛇である。何故なら彼は女に向かって、「汝らその果を食う日には汝らの眼開け、かくて汝ら神の如くになるべきを神知り給う」(創世記3・4、5)と語ったからである。それ故人間は無制限に自らをその愛に委ねる時、神から遠ざかり、自己自身に向き、自らを礼拝し、かくて彼の自己への愛は彼を駆って熱烈な敬虔を装わせるにしても、その心は神への軽蔑を以て冷淡である。彼は他の者に卓越しようとの己が自己的な目的を達成するためにこのように教会の神的な物をすら利用するのである。もしかかる人間がその野心を成就するならば、彼は彼自身の想像では、世界を双肩に荷なっているアトラス神或るいは太陽を戦車に積み込んで世界の周囲に持ち廻るフィーバス神の如きものとなるのである。

 

 

 

真の基督教823

 

この遺伝悪の結果、聖徒として祀られた者は凡て霊界では他の者の視野から隠され、その遺伝悪が刺激されて悪魔的な迷妄に取り憑かれないように、彼らの礼拝者との凡ゆる交わりを絶たれる。この狂気は世に在った際死後聖徒として呼び求められることを切望した凡ゆる者を苦しめるのである。

 

 

 

真の基督教824

 

多くのロマ・カトリック教徒は、特に修道僧は霊界で聖徒を特に彼ら自身の教団の聖徒を探し求めるが、これを見出さない。かれらはこのことに驚くが、しかし聖徒達は天界かまたは下界に居ると告げられる。何故ならこれらの聖徒は自分達に捧げられている礼拝を知らず、これを知って、まつられようと願う者は気が狂って愚物のように語るからである。天使達は聖徒礼拝の考え方に身震いする。何故なら人間に礼拝が捧げられる時、主に対し礼拝は拒まれ、而してこのように礼拝が分かたれると、彼らの幸福の源泉である主との交わりが破壊されるからである。

 私がロマ派の聖徒の性格を知り、これを記すために、自らが聖徒の列に加えられていることを知っている約百名の者が下界から私の許へ連れられて来た。その大半は私の後から来、只僅かな者のみが前から来て、その一人がザビエルとして私に紹介された。彼は愚物のように語ったが、然し彼はその監禁されている所では愚物ではなく、ただ聖徒としてまつられようと願う時にのみ愚物になるという事実を辛うじて私に告げたのである。私は背後の者らからもそれと同じ意味の呟きを聞いたのである。天界にある所謂聖者はこれと異なっている。彼らは地上に為される事を少しも知らず、また迷信的なカトリック教徒とはその誰とも語ることを許されていない、これは彼らにそのことで愚かなことを考えさせないためである。

 

 

 

真の基督教825

 

こうした 聖徒の状態は彼等に祈願することの全く無意味であることを示している。彼らは地上で自分達に捧げられる祈りを、路傍の彫像または教会の壁、その尖塔に巣を作っている鳥のように聞きはしないと私は断言することが出来る。世にある彼等の帰依者らは聖徒らは主イエス・キリストと共に天界を治めていると語るが、しかしこれは虚構である。何故なら馬丁がその王と共に、門番が貴族と共に、従僕が大監督と共に治めないように彼らは主と共に治めないからである。バプテスマのヨハネは自らを我等の主の靴の紐を解くにも価しない者と語ったのである(マルコ1・7。ヨハネ1・27)。ましてこれらの者に於いておや。

 

 

 

真の基督教826

 

 霊界における巴里の人々の社会に、時々或る優しい婦人が輝いた衣服を着けて中位の高さの所に現れ、自分はヂェネヴィエヴであると明らかに告げる。しかし若し彼らの中何人かが彼女を礼拝し始めるならば、その容貌と衣服は変わり、彼女は普通の婦人のようになる。それから彼女はその友人達が一婢に外ならぬ婦人を礼拝しようとすることを非難し、世の人々がこのような馬鹿げたことに欺かれることを怪しむのである。

 

 

 

真の基督教827

 

 上述の記事に私は特に注意すべき一つの事柄を附加しよう。主の母マリヤは嘗て白衣を着けて私の頭上を通り過ぎた。彼女は暫くの間立ち止り、主は実際彼女から生まれ給うたのであるが、しかし神となられて、彼女から得給うた凡ゆる人間性を脱ぎ去り給うた、それ故彼女は主を自分の神として礼拝しており、主に在る凡てのものは神的なものである故、何人も主を彼女の子として語ること願わないと話したのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説

黙示録19・10

 

『私はその足の前に平伏して、彼を崇めた、すると彼は言った、心してそれを行ってはならない、私もあなたの仲間の僕であり、イエスの証を持つあなたの兄弟たちの一人である、神を崇めよ』は、天界の天使たちを崇めたり、またこれに祈願をかけてはならない、なぜなら彼らの中に神的なものは何一つ無いからであり、彼らは兄弟が兄弟と交わっているように、人間と、即ち、主を拝している者たちと交わっており、それで両者が共に交わりつつ主のみを拝さなくてはならない、を意味する(818番)。 

 

 

 

(聖徒について)

霊界日記2133

 

 カトリック教の或る一人の者が、死んで間もなく幾多の宗教の或る者たちが殆ど毎日私のもとへ来るように、今日も私のもとへ来た。このロマ・カトリック教徒は私と話し合ったが、彼は地で聖徒とされた者らについて話した。彼は全天界には主のみを除いては聖者〔聖い者〕は一人としていない、天使たちが聖者〔聖い者〕と呼ばれることは主の聖さから発しており、主が聖さそのものであられる、それで主は聖霊と呼ばれ給うている、と話された。天使である者たちは、自分たちの中には聖いものは全く何一つない、それは汚れたものであり、聖さは主のみのものである、と告白している、なぜなら天使たちですら聖くはないことはダビデの詩篇から知られているからである。

 

 

 

霊界日記2136

 

 天国の鍵を与えられたペテロはいかようになっているか、と詮索された。以下のように答えられた、すなわち、ペテロにより信仰が理解されており、信仰に主の王国の鍵が与えられている、なぜならたれ一人主に対する信仰によらなくては天界へは入れられることは出来ないし、また主を除いてはたれ一人信仰は与えはしないし、それで主のみが天界の鍵を持たれて、たれにでも主がよしとされる者に天界を与えられ、それでそれはいかような人間のものではないからである。

 

 

 

霊界日記4601小

 

聖者たちの多くは地獄におり、他の者以上に魔法にふけっている、と話され、ある者らの名が挙げられたが、例えば、アントニウス、フランシス ザビエル、ダビデの名があげられ、またパウロについても話され、聖者らは天界はいかようなものであるかを知ってはいない、とも話され、その他いくたの事柄が話され―その中にはわたしの憶えていないものもあるのであるが―例えば、たれでも祈りにより主に近づくことが許され、主はたれにでも聞かれるのであり、拝されねばならないのは主のみであられる、などと話されたのである。

 

 

 

霊界日記4775

 

 次いで私はそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、即ち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。私は彼らが以下のように言うのを聞いた、宇宙の創造者は世に人間の前に現れ給わないわけにはいかないのである。なぜならその方は人間を創造られ、愛されておられ、死後の生命が在り、かくて人間を永遠に救おうと望まれているからであり、またその方は、人間の目にさえも、人間の形をとって現れ給うたに違いないのである、と。するとその霊たちは以下の事実について共に話した。即ち、現今、基督教世界にいる者らは、特に、学者らは、全く他の見解を持っている、即ち、主は人間として生まれられて、人間として現われられたからには、その者は、その人間的なものの方面では、宇宙の神である筈はなく、ましてや、凡ゆる物の創造者で在り得る筈はない(と考えているのであり)そのことが彼らの性質が歪められているという印となっているのである。なぜならその知的な部分の中には腐敗してはいない何らかのものが在り、ましてやその意志の部分の中に腐敗してはいない何らかのものが在る者たちの中には、宇宙の神は全く人間として現れ給わない訳にはいかないということが生来植え付けられているからである。そこから、古代人は、神が地に現れ給うた際、その方を、宇宙の創造者、神と呼んだのである、例えば、アブラハムとその他の者は(そのように呼んだのであり)、同じく、ギリシャのその時代の異邦人たちも―彼らは他の者たちにもまさって賢明であったが―その神々を凡て人間としたのである。例えば、サターン、ヂュピタ、ネプチューン、ジュノー、ミネルヴァ、その他多くの者を人間としたのである。同じく諸国民も、偶像を作る所ではことごとく、同様に振舞ったのである。なぜなら彼らの中に、彼らがその神を見、かくして神を承認することが生来具わっているからである。このことは、主から発している神的真理[神の真理]は、天界全体のみでなく、そこにいる天使各々の中にも人間の形を着けているという理由から起っているのである。なぜなら神的真理は、その形では、人間であるからである。ここから天界の凡ゆるものは人間と相応していることが生まれており、そのことについては、「天界の秘義」の3624―3649番を参照されたい。彼らはこうした事柄を互に話し合い、以下のことを怪しんだのである。即ち、教会が在る地域の中では学者の僅かな者しか主を神としては承認しようとはしていないが、そのことは単に主が人間であられたという理由に過ぎないのであり、人間的なものを神的なものとするものは何であるかを、彼らは全く把握していないからである、と。しかし私はまた或る者たちが以下のように言っているのを聞いたのである、即ち、教会内で或る者たちが聖者を神として拝していることは許しから発しており、そのことは目に見える神の考えが死滅しないことを目的としており、彼らはかくして、神的なものが人間の形をとっており、即ち、主から発出している神的なものが凡ゆる形において人間であるという何らかの考えを、自然から、保有するためである、と。

 

 

 

「ヂェネヴィエヴについて」

霊界日記6091

霊界日記6092

 

 

 

続最後の審判64

 

教皇派の国民の多くの者は、特に修道僧は、霊界に入ると、聖者を求め、各々、己が教団の聖者を求めるが、彼らを見出さないため、それを怪しむが、後に他の者から以下のように言われる。すなわち聖者たちは各々世にいたときのその生活に従って、天界に居る者たちと入り混じっているか、または地獄に居る者らと入り混じっているかしているが、その何れにいようとも、彼らは自分自身が拝され、祈り求められていることについては何事も知らない、それを知って、祈り求められようと願った者は、かの特殊な気違い地獄にいる、と。聖者礼拝は天界ではこのように嫌忌されているので、彼らはそれを聞く毎に戦慄する。なぜなら礼拝が人間に捧げられるに従って、それは主から遠ざけられるからである。なぜならそのため主のみが拝されず、もし主のみが拝されないならば、差別待遇が為され、そのため交わりから流れ出る生命の幸とが破壊されるからである。

 

 

 

神の摂理257

 

しかしなぜ主はこれを許されたかを今説明しよう。主はそれを人間の救いのために許されたことは否定することは出来ない。なぜなら主なしには救いはないことはよく知られており、それ故主が聖言から宣べ伝えられて、キリスト教会がそれにより建設されねばならなかったからである。しかしこれはその業に熱心な指導者によってのみ為されることができたのであり、その指導者の中にはその表面の熱意が熱情または自己愛で燃やされている者以外の者は見出されなかったのである。この熱情が先ず彼らを刺激して主を知らせ、聖言の真理を知らせたのであり、魔王が『朝の子』(12節)と呼ばれているのは、この最初の状態のためである。しかし彼らは教会の聖い物により支配することが出来ることを認めると、最初彼らを刺激して主を知らせた自己愛が内から迸り出て、遂には自分自身に主の神的な権能を僭取し、主には何ものも残さないほどにも甚だしくなった。これは主の神的摂理によりとどめることは出来なかった、なぜならそのような場合彼らは主は神ではなく、聖言も聖くはないと宣言し、ソツニウス派またはアリウス派となり、かくして全教会を―それは今も、その支配者らの性格は如何なるものでもあれ、従順な人々の許に存在しているのである―破壊したことであろう。なぜならこの宗教に属し、主に近づき、悪を罪として避ける者は凡て救われ、それゆえ霊界では多くの天界の共同体が彼らから形作られているからである。

 

 

 

2.ドレックス教授

 

天使館/天使のパン16号P44

『信仰は従順より偉大である』ドレックス教授への救い主の御言葉 

1973年11月2日早朝の主の御言葉

 

 信仰を持って真の教会に奉仕し、同時に諸聖人の中で最も聖である聖母マリアを崇めることは一つの働きである。真の教会の聖人たちには言い尽くしがたいほどの価値がある。その聖人たちの御像や御画を一般信徒だけでなく叙階された司祭までもが教会から取り除く時、それは責められるべき、また忌むべき事である。聖人たちは私に従い、多く人々を私へと導いた故に、私の友人である。聖書に書き記されているように、「わたしの父の家には、住む所がたくさんある」(ヨハネ福音書14・2)と私が語ったことを心に留めなさい。

 神に選ばれた人たちは永遠の幸福を約束され、私の友人であるばかりでなく、更に現在生きている人々の霊魂と肉体の困窮に際しての保護者でもある。神に選ばれた聖人たちの教訓と生涯の見本は、真のキリスト教的生活の道案内となっている。

 司祭を含むこれほど多くのキリスト者たちが彼らの生活から聖人の御像や御画を禁止し、その代わりに世俗的な偶像を置き、それが心の中に入って来るのを許したことは禍である! 神の聖人たちを忘れ、見捨て、あるいは否認さえする者は誰でも、救い主である私を見失い、同時に自分自身に大きな責任を負わすことになる。

 私の御父の最も美しい被造物であり、聖霊の至高の花嫁である聖母マリアの愛に顔を背けている者たちは禍である! 人々の魂から私の御母を拭い去り、御母への愛に対して冷ややかになっている者たちすべてに対し、その禍は三倍である。何故なら、童貞聖マリアはまさしく恵みの仲介者であり、教会の内外からの敵や異端者を征服するため、三位一体の神から力が与えられているからである。

 聖書には、「今から後、主に結ばれて死ぬ者は幸いだ」(黙示録14・13)と書かれているが、私は更に次のように言う、「私の聖母を崇拝する者、また霊魂を聖母への崇拝に貢献する者は誰でも、天国で永遠に続く祝福を確実に受けるであろう」。