政治
1.聖書
2.政治
3.帝国
4.貢物と税とを払うこと
5.マリア・ワルトルタ
1.聖書
出エジプト記22・27
神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。
マタイ17・27
しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。
マタイ22・19・22
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これはだれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
使徒言行録23・5
パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」
ローマ13・1−7
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。
だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
テモテ1・2・1−3
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
テトス3・1−2
人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、たれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。
ペトロ1・2・13−14
主のために、すべての人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
2.政治
新エルサレムの教義311
人間のもとには秩序づけられねばならない二つのもの、すなわち、天界に属したものと世に属したものがある。天界に属したものは教会的なものと呼ばれ、世に属したものは国家的なものと呼ばれる。
新エルサレムの教義312
治める者がなくては世に秩序は維持されること出来ない。彼らは秩序に従って行われる凡ての物と秩序に反して行われる凡ての物を監視し、秩序に従って生きる者に報い、秩序に反して生きる者を罰しなくてはならない。もしそのことが行われないならば、人類は滅びるであろう、なぜなら他の者を支配し、他の者の財産を得ようとする意志は遺伝から各人に内在しており、そこから敵意、嫉妬、憎悪、復讐、詐欺、残酷、その他多くの悪が発しているから。それでそれらが法律により、また善を為す者に対しては名誉と利得であるところの、その愛に適応した報酬により、また悪を為す者に対しては、名誉、財産、生命を失うという、その愛に反した刑罰により抑制されない限り、人類は滅びるであろう。
新エルサレムの教義313
それで人間の集団を秩序をもって治め、法律に通じ、賢明で、また神を恐れるところの治める者がいなくてはならない、またその治める者たちの間にも(その中の)たれかが気まぐれから、または無知から秩序に反した悪を許して、そのことによって秩序を破壊しないように、秩序がなくてはならない。それは位に上下のある治める者がいて、その間に従属関係がある時守られる。
新しいエルサレムとその天界の教義314
人間のもとで天界に関係したものを、または教会の事柄を治める者は祭司と呼ばれ、その務めは祭司職と呼ばれている。しかし人間のもとで世に関係した物を、または国家的な事柄を治める者は司政者と呼ばれ、その首長は、そうした形の政治が行われているところでは、王と呼ばれている。
新しいエルサレムとその天界の教義315
祭司については、彼らは人間に天界に至る道を教え、また彼らを導かねばならない、彼は聖言から彼らの教会の教義に従って彼らに教え、それに従って生きるように彼らを導かねばならない。真理を教え、それによって生活の善へ導き、かくて主へ導く祭司は、羊の善い牧者であるが、しかし教えはするが、生活の善へ導かず、かくて主へ導かない者は悪い牧者である。
新しいエルサレムとその天界の教義316
祭司は、人間の内部はいかような状態にあるかを知らないため、人間の霊魂を支配するいかような権能(パウア)をも自分に要求してはならない、まして天界を開き、閉じる権能を要求してはならない。何故ならその権能は主のみに属しているから。
新しいエルサレムとその天界の教義317
高貴と誉れとは、祭司にその祭司が司る聖い事のために払わねばならない、しかし賢明な祭司は、聖いものの源泉であられる主に誉れを与えて、自分には与えない。しかし賢明でない祭司は誉れを自分に帰して、それを主から取り去ってしまう。自分が司る聖いことのために、誉れを自分に帰す者はその顧みなければならない霊魂の救いよりも誉れと利得とを愛するが、しかし主に誉れを与えて、自分に与えない者は霊魂の救いを誉れと利得よりも愛している。職業の誉れは人間の中にはなくて、その司っている事柄の高貴に従って彼に接合されるのであり、そして接合されたものは人間自身のものではなくて、職業と共に彼から分離される。人間の中にある誉れは知恵の誉れと主を恐れることである。
新エルサレムの教義318
祭司は人々に教え、彼らを真理によって生活の善へ導かねばならないが、それでも何人をも強制してはならない、なぜならたれ一人その心から真であると考えるものに反したものを信じるように強制されることは出来ないから。祭司の信じていることと異なったことを信じてはいるが、何ら騒ぎを起こさない者は安らかに放任しておかねばならない、しかし騒ぎを起す者は分離しなくてはならない、なぜならそのことは祭司職が確立されている目標となっている秩序に属しているからである。
新しいエルサレムとその天界の教義319
祭司は神の律法と礼拝に関係したものを司るように定められているように、王と司政者とは国家の法律と審判とに関係したものを司るように定められている。
新しいエルサレムとその天界の教義320
王一人では凡ての事を司ることは出来ないため、その下には治める者がおり、その各々に治める州が与えられており、それは王一人では治めることは出来ないし、また可能でもない。この治める者たちが合して王政を構成しているが、王自身はその頭首である。
新しいエルサレムとその天界の教義321
王権それ自身は人間の中にはなくて、人間に接合されている。王権は自分自身の人柄の中にあると信じている王と統治の高貴さは自分自身の人柄の中にあると信じている治める者は賢明ではない。
新しいエルサレムとその天界の教義322
王者性〔王権〕(ロイアリティ)は国の法律に従って治め、公正からそれに従って審判くことにある。法律を自分自身の上に在るものとして認める王は賢明であるが、自分自身を法律の上に在るものとして認めている王は王者性を法律の中に置いており、法律が彼を支配している、何故なら彼は法律は公正であって、公正である公正はすべて神的なものであることを知っているから。しかし自分自身を法律の上にあるものとして認める者は自分自身の中に王者性〔王権〕を置き、自分自身が法律であると信じるか、または公正である法律が自分自身から発していると信じるかしており、かくて彼は神的なものを自分自身に僭取するが、しかし彼はその下にいなくてはならない。
新しいエルサレムとその天界の教義323
公正である法律は法律に通じ、賢明であり、神を恐れる人物により国の中に施行されねばならない、かくて王とその従臣とはそれに従って生きなくてはならない。その施行されている法律に従って生き、そのことでその従臣に模範を示す王は真に王である。
新しいエルサレムとその天界の教義324
絶対的な権力を持ち、従臣は奴隷であり、自分はその財産と生命とに権利を持っていると信じている王は、もしそのことを行うならば、王ではなくて、圧制者(タイラント)である。
新しいエルサレムとその天界の教義325
国の法律に従って王に服従しなくてはならない、またいかような方法によっても、行為によっても、言葉によっても王を害してはならない、なぜならそのことに公共の安寧はかかっているからである。
啓示による黙示録解説779
ここから祭司と王と教会の凡ゆる物は油を注がれ、油を注がれると、聖いと呼ばれたが、それは彼らが彼ら自身において聖かったのではなくて、彼らはそのことにより神的な人間的なものの方面の主を表象したためである。かくて王は『エホバから油注がれた者』であったため、これを害することは聖物冒涜にあたっていた(サムエル記前24・6、10、26・9、サムエル記後1・16、19・21)。
天界と地獄220
地獄にもまた政治がある、なぜなら政治が無い限り、彼らは閉じ込めておかれないから、しかしそこの政治は凡て自己愛の政治であって、天界の政治に対立している。そこの各々の者は他の者を支配して、他よりもはるかに傑出しようと願っている。彼らは彼らに与しない者を憎み、これを復讐しようと憤怒の対象となっている、なぜならそれが自己愛の性質であるから。それゆえ、〔他よりも更に〕邪悪な者が統治者として彼らの上に置かれ、これらに彼らは恐怖から服従している。しかしこのことについては、後に地獄を取扱うようになる時述べよう。
3.帝国
天界と地獄220注
自己と世への愛が支配し始めた後は、人間は安全を求めて自分自身を統治者に服従させねばならなくなった、7364、10160、10814.
天界の秘義7364
彼ら(火星の霊たち)の社会の中で間違ったことを考え、そこから間違ったことを願い始める者は引き離されて、放任されてしまい、そこから凡ゆる交わりを絶たれて、非常に惨めな生活を、岩やまたは他の所で送るのである、なぜなら彼らは最早他の者からは心に掛けられなくなるからである。或る社会は色々な手段でこうした者を悔改めさせようと努力するが、それが失敗すると、彼らは彼らから自分自身を引き離してしまうのである。このようにして彼らは主権欲と利得欲とが入り込ませないように、即ち、たれかが主権欲から彼らが住んでいる社会をその者自身に従えさせ、そこからまた他のものを従えさせないように、またたれかが利得欲から他の者の財産を奪わないように注意しているのである。その地球では各々の者は自分の財産に満足して生活しており、また各々の者は正しい者、隣人を愛する者と呼ばれる名誉に満足して生活しているのである。こうした歓びと心の平安とは、悪いことを考えて、それを願いもする者が放逐されない限り、また彼らが自己への愛と世への愛とにとりつかれる者らにおけるそうした愛の始まりそのものを深重に、また厳しく処置しない限り、死滅してしまうのである。なぜなら社会を帝国と王国になしたものはこの愛であったからであり―その帝国、王国の中では他の者を威圧し、他の者の財産を凡て得ようと願わない者は僅かしかおらず、公正と公平から公正で公平なことを為す者も僅かしかおらず、善いことを仁慈から、真のことを信仰から為しはするが、法律、危害、または利得、名誉の損失、また利得と名誉のための世評に対する恐怖からはそうしたことを為しはしない者は更に僅かしかいないのである。
4.貢物と税とを払うこと
黙示録講解513ニ(18)
自然的な人は『魚』により意味されていることは主の奇蹟により明らかである―
半シケルを受けた者らは来た。イエスはシモンに言われた、地の王たち、彼らはたれから貢物または税を取りますか、彼らの息子たちからですか、それともよその者ら〔他国の者〕からですか。ぺテロはイエスに言った、よその者ら〔他国の者ら〕からです。イエスは彼に言われた、それでは息子たちは自由です。しかし私たちは彼らを躓かせないため、あなたは海へ行き、釣り針を投げ込み、最初に上がって来る魚を取り上げ、その口を開きなさい、あなたは一シケルを見つけ出すでしょう、それを取り、わたしとあなたのために彼らに与えなさい(マタイ17・24−27)。
『貢物と税とを払うこと』は従属することを、仕えることを意味したのであり、それで貢物は、イスラエルの子孫ではない他国の者らに課せられたのであり、そのことは聖言の歴史から明白である。『イスラエルの子孫』は―その者らのもとに教会が在ったのであるが、―霊的なものを意味し、『よその者〔他国の者〕』は自然的なものを意味し、自然的なものは霊的なものに従属し、それに仕えるのである、なぜなら霊的な人は主人のようなものであり、自然的な人は召使のようなものであるからであり、自然的なものは召使いであり、それで貢物を払う者たちにより意味されているように、主もぺテロも意味されはしないで、『魚』が―それは自然的な人を意味したのであるが―その貢物を供えなくてはならないことが起こったのである。
5.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P89
政権の座にある人に向かって、むやみに無礼なことを言ってはならない。支配者たちに抵抗したからといって国が偉大で自由になるわけではなく、国民の聖なる生き方があってこそ神の助けを得られるのです。神は支配者たちの心に触れて回心させることもできるし、また、我々イスラエルの歴史が示しているとおり、破滅させることもできます。