静謐

 

天界の秘義4393

 

「ヤコブはシケムの都、サレムに来た」。これは静謐な内的真理を意味していることは以下から明白である、すなわち、『サレム』の意義では平安の静謐であり(下記を参照)、『シケムの都』の意義は信仰の内的な諸真理である(そのことについては次章を参照されたい、そこにシケムとその都がとり扱われているのである)。『都』が信仰における真理を意味していることは、402、2268、249、2451、2712、2943.3216番に見ることができよう)。『サレム』が平安の静謐を意味していることはダビデの書に見ることができよう―

 

 ユダの中に神は知られ、そのみ名はイスラエルに偉大であり、サレムにはまたその天幕が在り、シオンにはその住所がある。そこでかれは弓の生きた炭を、楯と剣と戦いをくだかれた(詩篇76・1−3)。

 

ここでは『サレム』が平安の静謐を意味していることは明白である、なぜなら『かれはそこで弓の生きた炭を、楯と、剣と戦いをくだかれた』と言われているからであり、また原語のその意義からも明白である、なぜなら『サレム』は静謐と完成とを意味しているからである(平安の静謐の何であるかは、1726、3696番に見ることができよう)。この平安の中に内的な諸真理が存在している、すなわち、信仰と生命において内的な諸真理にいる者たちがいるのである。しかし人間が外的な諸真理の中にいるかぎり、とくにかれらが外的な真理から内的な真理の中へ入りつつあると、そのときはその状態は静謐ではない、なぜならそのときは試練の争闘が存在するからである。そのことがまたここにヤコブにより表象されており、すなわち、かれが、エソウのために恐れと不安とを抱いていた後で、今や静謐な状態へ達したのである。

 

 

天界の秘義4394

 

「カナンの地にあるところの」。これは、主の王国における、を意味していることは、『カナンの地』の意義から明白であり、それは主の王国である(1413、1437、1607、3038、3481、3705番を参照)。人間が信仰と生命において内的な諸真理の中にいるときは、かれは主の王国の中におり、静謐の状態にいて、そのときは外的な事柄を、高い岡から荒海を眺める者のようにも眺めるのである。

 

 

天界の秘義5963

 

すぐ前に(5962番)記した他生の色々と変化する状態はそこにいる者たちの許に在る善と真理との認識に順応しており、かくてかれらが主の臨在[現存]を認識することに順応しているのである。この認識に応じてかれらは静謐を得ているのである。なぜなら主の臨在を認識している者たちは、かれらに起る一切の物はかれらの善に貢献しているが、悪はかれらには及ばないことを認識しており、そこから静謐(な状態)の中にいるからである。主に対するこのような信仰または信頼がなくては何人も決して平安な静謐(な状態)には達することはできないし、かくてまた喜びの中に祝福に達することもできないのである、なぜならこの祝福は平安な静謐(の状態)の中に宿っているからである。