捧げ物
天界の秘義5619
「その男の人に贈物を携えてくだり」。これは恩恵を得ることを意味していることは、『その男の人に』、ここでは『地の主』と呼ばれているヨセフに、『贈物をささげること』の意義から明白であり、それは恩恵を得ることである。古代の表象的な教会では、引いてはユダヤ教会では、裁判官に、後代では王と祭司とに何か贈物を捧げることは、(すなわち)その者たちに近づくとき贈物を捧げることが慣習とされ、さらにそのことは命じられもしたのである。その理由は、かれらが捧げた贈物は、主に近づくとき主に捧げられねばならないような人間におけるもの、すなわち、自由から発し、従ってその人間自身から発しているものを表象したということであった、なぜならかれの自由は心から発しているものであり、心から発しているものは意志から発しており、意志から発しているものは愛のものである情愛から発しており、愛のものである情愛から発しているものは自由であり、かくてその人間自身のものであるからである(1947、2870−2893、3158番を参照)。このことから人間は主に近づくときは主に捧げ物をささげなくてはならないのである。表象されたものはこの捧げ物であった、なぜなら王は主を神的な真理の方面で表象し[王は主の神的な真理の方面を表象し](1672、2015、2069、3009、3670、4581、4966、5044番)、祭司は主を神的な善の方面で表象したからである(1728、2015、3670番)。これらの贈物は入れられることであったことについては4626番を参照されよ、入れられることは恩恵を得るためである。
天界の秘義9938
「イスラエルの子孫がその聖い物の捧げ物の凡てについて浄める。」これは罪から遠ざけられることを表象している礼拝の行為を意味していることは、イスラエルとユダ国民の間では主としてはん祭と生贄と素祭であった『捧げ物』または『供え物』の意義から明白であり、それは礼拝の内的なものである、なぜならそれがそれらにより表象されたものであったからである。礼拝の内的なものは愛と信仰とに属したものであり、引いては罪を赦されることであり、即ち、罪から遠ざけられることである、それは罪は主から発した信仰と愛とを通して遠ざけられるためである。なぜなら愛の、また信仰の善が入るに比例して、またはそれと同じことではあるが、天界が入ってくるに比例して、罪は遠ざけられ、即ち地獄は、人間の内部にあるものも、その外にあるものも、遠ざけられるからである。ここから彼らが『浄めた、即ち、捧げた捧げ物』の意義が明白である。捧げ物は聖い事柄を表象したため、それは『聖い』と呼ばれ、それを捧げること、または供えることはそれを『浄めること』と呼ばれたのである。なぜならそれは償いのために、引いては罪から遠ざけられるために捧げられ、罪から遠ざけられることは主に対する主から発した信仰と愛とを通して行われるからである。
天界の秘義9938〔2〕
それは、エホバ、即ち、主は捧げ物または供え物を何ら受け入れられはしないで、凡ゆる者に無代価で凡ゆる者に与えられているけれど、『エホバに捧げられた捧げ物または供え物』と呼ばれたのである。主は無代価で凡ゆる者に与えられるにも拘らず、主は人間がその捧げ物が人間自身から発していないで、主から発していることを承認しさえするなら、そうした物が人間自身から発しているものとして発することを望まれているのである。なぜなら主は愛から善を行う情愛を、信仰から真理を語る情愛を与えられているが、しかしその情愛そのものは主から流れ入っており、それが恰も人間の中に在り、かくして人間から発しているかのように見えるからである。なぜなら人間は、愛に属した情愛から行うものは何であれ、愛は各々の者の生命であるため、その生命から行うからである。ここから人間により『主に捧げられた捧げ物と供え物』と呼ばれているものはその本質では主から人間へ与えられた捧げ物と供え物であることが明白であり、それが『捧げ物と供え物』と呼ばれているのは外観から発しているのである。心の賢明な者は凡てこの外観を認めているが、しかし単純な者はそれを認めてはいない。それでもこの単純な者の捧げ物と供え物が無垢を宿した無知から捧げられている限り、主に嘉納されるのである。無垢は神に対する愛の善であり、無知の中に宿り、特に心の賢明な者のもとでは、無知の中に宿っている、なぜなら心の賢明な者は、自分自身の中には自分自身からは知恵は何一つ無く、知恵の凡ゆるものは、即ち、愛の善の凡ゆるものは、また信仰の真理の凡ゆるものは主から発しており、かくて賢明な者のもとにさえも、無垢は無知の中に宿っていることを知り、また認めているからである。ここからこの事実を承認もすることが、特にそれを認めることが知恵の無垢であることが明白である。