わたしはただ一人で酒ぶねを踏んだ

イザヤ63・3

1.聖書より

2.スウェーデンボルグより

3.マリア・ワルトルタより

 

 

1.聖書

 

イザヤ63・1−6

 

主の報復

「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き 勢い余って身を倒しているのは。」

「わたしは勝利を告げ大いなる救いをもたらすもの。」

「なぜ、あなたの装いは赤くそまり 衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」

「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ 憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び わたしは着物を汚した。」

わたしが心に定めた報復の日 わたしの贖いの年が来たので わたしは見回したが、助ける者はなく 驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により わたしを支えたのはわたしの憤りだ。わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり わたしの憤りをもって彼らを酔わせ 彼らの血を大地に流れさせた。

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義2025[2]

 

 主は御自身の勢力により御自身にあらゆるものを得られ、御自身の勢力により人間的な本質を神的な本質に結合し、神的な本質を人間的な本質に結合させられ、かくして主のみが義となられたことは予言者の書に明白である。例えばイザヤ書には―

 

  このエドムから来られて、おびただしいその強さの中に進んでこられる方はたれですか。わたしはただ独りで酒ぶねをふんだ、民の中で一人もわたしとともにいる者はいなかった、わたしは見まわした、が、助ける者は一人もいなかった。わたしはおどろいた[仰天した]、たれ一人支えはしなかった。それでわたしの腕がわたしに救いをもたらした(62・1、3、5)。

 

 『エドム』は主の人間的な本質を意味し、『強さ』と『腕』は力を意味しており、それが主御自身のものであったものから発していたことは、『助ける者は一人もいなかった』、『たれ一人支えはしなかった』、『かれ御自身の腕がかれに救いをもたらした』ということの中に明らかに言われているのである。

 

 

天界の秘義3614[3]

 

 内意では『憤り』と『怒り』はたんに反感にすぎないことは聖言の以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

 エホバは凡ての国民に向って熱し、その凡ての軍勢を憤りたもう(イザヤ34・2)。

 

『凡ての国民に向って熱する』は悪に対する反感を意味し(『国民』は悪であることについては、前の1259、1260、1849、1868、2588番を参照)、『凡て彼らの軍勢を憤りたもう』はそこから派生してくる誤謬に対する反感を意味している(『天の軍勢』と呼ばれている『星』は知識であり、かくて真理であり、その対立した意義では誤謬であることは前の1128、1808、2120、2495、2849番に見ることができよう)。さらに―

 

 たれがヤコブを餌食となし、イスラエルをその掠奪者に与えたもうたか。エホバではなかったか。わたしたちが罪を犯したその方ではないか。それでかれはかれにその怒りの憤りを注ぎたもうた(イザヤ42・24、25)。

 

『怒りの憤り』はあくの誤謬に対する反感を意味し、『ヤコブ』は悪の中にいる者を意味している。

 

 

天界の秘義3614[4]

 

 さらに、

 

 わたしはただひとりで酒ぶねをふんだ、民の中で一人としてわたしとともにいる者はなかった、わたしは怒ってかれらをふみつけ、憤ってかれらをほろぼした、わたしは民を怒ってふみにじり、憤ってかれらをよわせた(イザヤ63・3、6)。

 

 ここには主とその試練における主の勝利とが取扱われており、『怒ってふみつけ、ふみにじる』ことは悪に対する勝利を意味し、『憤って滅ぼし、酔わせる』ことは誤謬に対する勝利を意味しており、聖言では、『ふみにじる』ことは悪について述べられ、『酔わせる』ことは誤謬について述べられている。エレミア記には―

 

 主エホバはこのように言われる、見よ、わたしの怒りと憤りとはこの所に、人に、獣に、野の木に、土地の実に注がれるであろう、それは燃えて消えはしない(エレミア7・20)。

 

 ここには悪も誤謬も取扱われているため、『怒り』も『憤り』も言われている。

 

 

天界の秘義5005

 

「その家の雇人たちはたれ一人その家にいなかった」。

これはそれがたれの援助も受けなかったことを意味していることは、そのことによりかれは只一人いたことが意味されているという事実から明白であり、内意では『ヨセフ』により主が意味され、また主がいかようにしてその内なる人間的なものを栄化され、またはそれを神的なものになされたかが意味されているため、これらの言葉により、主はそのことをたれのたすけも受けられないで為されたことが意味されているのである。(中略)このことがイザヤ書の以下の言葉に記されているのである―

 

このエドムから来られる者、ボズラから上着を染めて来られる者・・・(イザヤ63・1,3,5)

 

 

真の基督教116

 

 主は世に在し給うた時地獄と戦い、これに勝ち、これを征服し、かくしてこれを服従の状態に入れ給うたことは、聖言の多くの記事によって明瞭である。その中から我々は以下の若干の記事を引用しよう。

 

「このエドムよりきたり緋衣をきてボヅラよりきたる者はたれぞ、その服飾はなやかに大いなる能力をもて厳しく歩みきたる者はたれぞ、これは義をもてかたり大いに救いをほどこす我なり。なんぢの服飾はなにゆえに赤く、なんぢの衣は何故に酒搾を踏む者とひとしきや。我はひとりにて酒搾を踏めり、諸々の民の中に我と共にする者なし、われ怒りによりて彼らを踏み、憤りによりて彼らを踏みにじりたれば、彼らの血わが衣にそそぎわが服飾をことごとく汚したり。そは刑罰の日わが心の中にあり、救贖の歳すでに来れり。わが腕われを救い、彼らの勝利を地に委ねたり。エホバ言いたまえり、誠にかれらはわが民なり、我が子なり。かくてエホバかれらのために救い主となりたまえり。その愛と憐れみとによりて彼らをあがないたまえり」(イザヤ63・1−9)

 

これは主の地獄との争闘について語られている。はなやかな服飾と緋衣とによってユダヤ人から恥ずかしめを受けた聖言が意味されている。彼が地獄と争い、これに勝ち給うたことは彼が怒りによって彼らを踏み、憤りによって踏みにじり給うたことによって記されている。

彼が単独に、しかも、彼自身の力で戦い給うたことは以下の言葉に記されている。「もろもろの民のなかに我と共にする者なし。わが腕われを救い、かれらの勝利を地に委ねたり」。

 

 

啓示による黙示録解説829

 

「彼は全能なる神の狂憤と怒りのぶどう酒の酒ぶねを踏まれる」は、主はただ一人で教会の凡ゆる悪に堪えられ、また聖言に、かくて主御自身に加えられた凡ゆる暴行にも堪えられたことを意味している。『神の狂憤と怒りのぶどう酒』により、聖言から発してはいるが、冒涜され、不善化された教会の諸善と諸真理とが意味され、かくて教会の諸々の悪と誤謬とが意味され、されている(316、632、635、758番)。そのぶどう酒の『酒ぶねを踏むこと』により、それらに堪え、それらと戦い、それらを罪に定め、かくてそれらに取りつかれて、悩まされることから諸天界の天使たちと地上の人間とを解放することが意味されている。なぜなら主からは、当時天使たちに取りついて、これを悩ますほどにも増大した諸々の地獄を征服するために世に来られ、これと戦うことにより、かくて試練によりそれらを征服されたからである。なぜなら霊的試練は地獄との闘争以外の何ものでもないから。そして人間各々はその情愛の方面では、引いては思考の方面は、霊たちと交わっているため、それで主は地獄を征服されたときは、天界の天使たちをその地獄に取りつかれて悩まされることから解放されたのみでなく、地の人間も解放されたのである。それでこのことがイザヤ書の以下の言葉により意味されているところである―

 

 彼は私たちの病を負われた、彼は私たちの苦痛を運ばれた、彼はまた私らの咎のために傷つけられ、私たちの不法のために打たれ、その傷により私たちは癒された。エホバは彼の上に、私ら凡ての者の不法を置かれた、彼は生きた者の地から絶たれた、私の民の咎のために彼は打たれた、彼はその魂の上に罪を置かれた(イザヤ53・4−10)。

 

 これらの事柄は主にかかわり、地獄による主の試練にかかわり、ついには主を十字架につけたユダヤ人による試練にかかわっている。主の争闘はまたイザヤ63・1−10に記され、そこにはまた以下の言葉が記されている―

 

 あなたの上着は酒ぶねを踏む者のようであられる、わたしはただ独りで酒ぶねを踏んだ(2、3節)。

 

 このことにより主のみが教会の諸々の悪と誤謬とに堪えられ、聖言に、かくて主御自身に加えられた凡ゆる暴行に堪えられたことが意味されている。暴行が聖言に加えられ、かくて主御自身に加えられたと言ったのは、主は聖言であられ、暴行はロマ カトリックの宗教的信念により、また信仰のみにかかわる改革派の宗教的信念によっても加えられたためである。主からは最後の審判を行われたとき、その二つのものの悪と誤謬とに堪えられたのであって、その審判により地獄を再び征服されたのであり、彼らが再び征服されなかったなら、主がマタイ24・21、22に言われているように、一人も救われることができなかったであろう。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ111・6

 

それまでずっと口を噤んでいたシモン・ゼロテが、自分に語り聞かせるように言う、「『赤く染められた服を着て来る者は誰か?その服をまとい、その力の偉大さのうちに歩く姿は美しい』。『正義をもって語り、救うために保護するのはわたしである』。『なぜならばあなたの服は赤く染められ、あなたの衣は圧搾場の葡萄の実を踏む者のそれのように赤いのか?』『わたしは独り圧搾場で踏んだ。わたしの贖罪の年は来た』」。

「シモン、あなたは理解しましたね」とイエズスは指摘する。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P34

 

 イエズスは、彼らに沈痛な視線を向け、こう語る。

「おまえたちはダビドがキリストについて言っていることと、イザヤが言っていることとを忘れたのか。『彼らは慰めの代りに毒を食わせ、渇いている私に酢を飲ませた。彼らにとって食卓は罠の網になり、宴会が落とし穴となる・・・赤く塗って進む者はだれか。ぶどうの刈り入れよりも服を汚して。華やかに装い、力に満ちて進む者はだれか。正義をもって語り、救いにおいて偉大な者が私である。なぜ、あなたの服は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む人のようなのか。私は一人で桶のぶどうを踏んだ。諸々の民の中で、だれも私とともにはいなかった。私は憤って彼らを踏みつけ、怒って踏みにじった。彼らの血は私に飛び散り、服をくまなく汚した(詩篇69・22〜23、イザヤ63・1〜3)』これがよく分からないにしても、それは、おまえたちの責任ではない。過ってさっきのように考えるのは私への愛のためであろう。おまえたちには、“もう一つの愛”を考えてもらいたいが、今のところ、それは無理だろう。・・・人が光に目を遮られているのは何世紀にもわたる罪なのだ。しかし光は城壁を倒し、おまえたちの中に入るだろう・・・さあ、出かけよう」

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P69

 

同じく八月二日の夜、わたしたちの生命の葡萄酒となるために、自らを踏み潰した御方、血に濡れた衣をまとう痛々しいイエズスが再び姿を現された。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音4巻下P196

 

 イエズスは立ち止り、少年を両手で捕まえ、彼を自分の前に安定させ、持ち上げ、そしてまるで詩篇を唱えるように、言う、「それから第六時と第九時の間に、来たり給うた救い主、贖い主である御者、彼について預言者たちが語るこの御者は、苦い裏切りのパンを食し、生命の甘きパンを与えた後、自分自身を絞り桶の中の葡萄の房のように絞り取った後、自分と人びとと草の渇きをいやした後、彼の生け贄を焼き尽くすでしょう。そしてその血で王の緋衣を自分のためにつくり、いばらの冠をかぶり、笏を握り、いと高き所に運ばれた王座に座す、というのも、シオン、イスラエル、そして世界が彼を見るためです。その満身創痍の体に緋の衣をまとって、闇に光を与え、死に生命を与えるために立ち上がる者は、第九の時に死ぬでしょう、そして世は贖われるでしょう。」