祭司における仁慈

 

仁慈の教義160

 

祭司における仁慈。もし彼が主を仰ぎ、悪を罪として避け、彼に課せられている聖職の業を誠実に、公正に、忠実に遂行するなら、彼は絶えず用の善を行い、仁慈の形となるのである。そして彼が霊魂〔人々〕の救いを求める願望に心を動かされる時、彼は用の善を、または聖職の業を誠実に、公正に、忠実に行うのである。そして彼がそのように心を動かされるに応じて、彼は真理に心を動かされるのである。なぜなら真理により彼は霊魂〔人々〕を天界に導き、彼が人々を主に導く時は真理により天界へ彼らを導くからである。それで聖言から真理を勤勉に教えることが彼の愛である、何故なら彼が聖言から真理を教える時、彼は主からそれを教えるからである。何故なら主は聖言であられるのみでなく(ヨハネ1・1、2、14)、『戸〔扉〕』であられるからである。それで主を『戸』として羊の檻へ主により入る者は善い羊飼いである。そして主を『戸』として主により羊の檻へ入らない者は悪い羊飼いであり、その者は盗人と強盗と呼ばれるのである(ヨハネ10・1−9)。

 

 

(教育)

黙示録講解427イ

 

アベル・・・仁慈の善

カイン・・・信仰の真理

 

『エホバはカインの上に、彼が殺されてしまわないように、ある印を付けられた』

エホバは彼を他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成するような事柄に関わる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ないからである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。

 このことから『エホバはカインの上に、たれも彼を殺さないように、またたれであれ彼を殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることが出来よう。さらに、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、すなわち、信仰を構成しているような事柄に関わる知識の中にいる者らは ― かれらは『カイン』により意味されている人物または信仰であるが ― これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために ― そのことを彼らは記憶から行うのであるが ― 保持されるのである。