良心を持つ者の自由

 

 

 

天界の秘義918

 

「箱舟を出た。」これはまた自由の状態を意味していることは箱舟から出ることについて前に(16節に)言ったことから明白である。

 霊的な人の自由の性質はかれが良心を通して主により支配されていることを考察することから明らかになる。良心により支配される者は、または良心に従って行動する者は自由に行動する。かれにとって良心に反して行動する以上に不愉快なことはない。良心に反して行動することはかれには地獄であるが、しかし良心に従って行動することはかれには天界であり、このことからたれでも良心に従って行動することが自由であることを認めることができよう。主は善い真のものの良心を通して霊的な人間を支配され、そしてこの良心は、既に言ったように、人間の理解の内に形作られ、かくてその意志に属したものから分離されている。そしてそれは意志に属したものから全的に分離されているため、人間は人間自身では善いことは何ら決して為さないことは極めて明らかである。そして信仰の真理はことごとく信仰の善から発しているからには、人間は人間自身からは真の事柄は何一つ決して考えないのであり、これは主のみから発していることは明白である。かれがこれらのことを自分自身から為しているように見えるのは単に外観に過ぎないのであり、それがそうであるため、真に霊的な人間はそのことを承認し、また信じている。このことから主により霊的な人間に与えられた良心は謂わば新しい意志であり、かくて新しく創造された人間は新しい意志を与えられ、またそこから新しい理解を与えられることが明白である。

 

 

 

天界の秘義1947

 

 人間は再生しつつある間は、かれは主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことによりかれは天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―

 

真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32,36)。

 

この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜならかれらは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―

 

罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)

 

この奴隷的な自由をかれらはかれらとともにいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、かれらはこれらの霊の生命の内にいるときは、またかれらの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜がかれらに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行くときは、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、かれらを地獄に引きずりおろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、かれらを天界へ引き上げるということである。

 

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P16

 

 完徳を熱望しなければならない。それは、霊魂の本質的願いだからである。あなた達のその良い意志の中に、非常な力が包含されているからである。あなた達は神の似姿である、と記されている。それは、あなた達の良心の中には、自分の状態の様々な段階を識別させることのできる目がある、ということを意味する。