良心は信仰の諸真理により形作られる
天界の秘義1043[3]
真理の外観はことごとく雲であり、人間は聖言の文字の意義の中にいる時は、その中にいるのである。しかし彼が単純に聖言を信じ、仁慈を持っている時は、その者は例え外観の中に止まっているにしてもこの雲は比較的稀薄である。教会の内にいる人間のもとで、良心が主により形作られるのはこの雲の中である。真理の無知[真理を知らないこと]もまたことごとく雲であり、その雲の中に人間は信仰の真理の何であるかを知らない時、置かれており、全般的には、聖言の何であるかを知らない時、置かれており、まして主について聞いたことのない時は更にその中に置かれているのである。この雲の中に良心が教会の外にいる人間のもとにも主により形作られるのである。なぜならその者の無知そのものの中にさえも無垢が在り、かくて仁慈が在り得るからである。凡ゆる誤謬もまた雲である。しかしこれらの雲は暗黒であってそれは―他の所で記したところの―誤った良心を持った者たちか、何ら良心を持っていない者か、その何れかの者のもとに在るのである。これらが、全般的に、雲の性質である。その雲の大きさについては、もし人間がそれを知ったなら、光線が主からさし通すことが出来て、人間が再生することが出来るということを怪しむ程にも大きな、また厚い雲が人間のもとに在るのである。自分自身には雲は殆どど無いと考えている者が時としては非常に大きな雲を持っており、自分には非常に多くの雲があると信じている者には雲が少ないのである。
天界の秘義1077
良心は信仰の諸真理により形作られるのである。なぜなら人間が聞いたり、承認したり、信じたりしたものが人間の中に良心を作るからであって、その後でそれに反して行動することは、たれにも充分明白であるように、その者には良心に反して行動することになるのである。それゆえ人間が聞き、承認し、信じるものが信仰の諸真理でない限り、人間は決して真の良心を持つことは出来ないのである。なぜなら人間が再生するのは信仰の諸真理によっており(主は仁慈の中に働かれているのであるが)、それで人間が良心を受けるのは信仰の諸真理によっており、良心は新しい人間自身であるからである。
天界の秘義1832
なぜなら教義的なものは、それが仁慈に連結しない中は信仰に属してはいないけれど、信仰の事柄と呼ばれているからである。これらのものと主との間には類似と相応とは存在していない、なぜならそれらのものは、愛と仁慈とに属しているもののように、内なる指示と良心とにより流れ入ってくるものではなくて、教えられることにより流れ入り、かくて聞くことにより流れ入ってくるのであり、かくて内的なものから流れ入らないで、外的なものから流れ入ってくるのであり、そうした方法で人間の中にそれらのもの[愛と仁慈]の容器を、または受容体を形成するからである。
天界の秘義2046
「男はことごとく」。これは信仰の真理の中にいる者たちを意味していることは、『男』の意義が真理であることから明白である(これについては、672、749番を参照)。信仰の真理を意味している『男』の名前がここにあげられているのはたれ一人真理の中にいる者以外にはそれらの汚れた愛から清められることは出来ないからである。真理から清いものを、また清くないものを、また聖いものを、汚れたものを知るのである(cognoscit)。彼がこのことを学んでいない中は、主から絶えず流れ入ってくる天界の愛が、その中へ、またそれを通して働きかけることが出来る手段は存在しないからである、なぜならこの天界的な愛は真理を除いては、いかようなもののうちにも受け入れられることは出来ないからである。それで人間は信仰の幾多の知識により改良され、再生されるのであって、これはその人間がその知識に浸透しない中は行われはしないのである。良心そのものは信仰の幾多の真理により形作られるのである、なぜなら再生した人間が与えられる良心は真で正しいものの良心であるからである(977、986番の終わり、1033、1076、1077番を参照)。これがまた石の小刀が、または『岩の剣』が―それはそのように呼ばれているが―割礼に用いられた理由である(これらのものは真理を意味していることは、前の2039番の終わりに認めることが出来よう)。
天界の秘義1832 [2]
それらのものの大部分は真理であるかのように見えるが、しかし真理ではない、即ち、聖言の文字の意義に属して、真理を表象するものであり、真理を意味しているものであるようなものであり、かくてそれらのものはそれ自身では真理ではなく、そのうちのあるものは誤謬ですらあるが、しかしそれらのものは容器、受容体として役立つことが出来るのである。しかし主には本質的に真理である真理以外には何ものも存在しないのであり、それ故その外観的な真理の側ではそれらのものは[外観的な真理は]愛と仁慈とに属した天的なものに対する容器として役立つように適合[適応]されることが出来るのである。外観的な真理が、前に述べられた知的な部分の雲を構成しているものであって、その中へ主は仁慈を徐々に注ぎ込まれ、かくして良心を作られるのである。
天界の秘義1832 [3]
例えば、聖言の文字の意義の中に止まって、試練に導き入れ、かくして人間の良心を責め苛むものは主であると考えており、また主は悪を許すため、主は悪の原因であり、また主は悪い者を地獄に投げ込むといったようなことを考えている者の場合では、これらのものは外観的な真理ではあるが、真理ではないのである、そしてそれらのものはそれ自身において真理である真理ではないため類似と相応は存在していないのである。それでも主はそれらのものを人間の中にそのままに残されて、それらのものが天的なものに容器として役立つことが出来るように、仁慈によりそれらのものを奇蹟的に適合[適応]させられるのである。気質の善良な異邦人の礼拝と宗教的な教えと道徳とはこのように適合されるのであり、その偶像さえもそのように適合されるのである。こうしたものを主は同じようにそのままに残されておかれ、しかもそれらのものもまた容器として役立つように仁慈によりそれらのものを適合させられるのである。古代教会における、後にはユダヤ教会における極めて多くの祭儀の場合もそれと同じであったのであり、それらのものはそれ自身ではその内に真理を宿していない儀式以外の何ものでもなかったのであって、容認され、また許されもし、実に命じられさえもしたのである、なぜならそれらのものは両親により神聖なものとして考えられ、かくて子供達の心に植えつけられ、幼児の項から真理として彼らに印刻されたからである。
天界の秘義1832 [4]
これらの事柄がまた他のそのような事柄が鳥が分けられなかったという記事により意味されているものである。なぜなら一度人間の意見の内に植えつけられて、聖いものとして考えられているものは、それが神的秩序に反しさえしないなら、主はそのままにしておかれるのであり、類似と相応とは無いもののそれでも主はそれらのものを適合させられるからである。