律法の廃止
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.アグレダのマリア
4.マリア・ワルトルタ
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義8972〔2〕
主からイスラエルの子孫に定められ、命じられもした律法は、『戒め』、『審判〔掟〕』、『教令〔法令〕』に分けられた。生命〔生活〕に属したものは『戒め』と呼ばれ、法治国に属したものは『審判〔掟〕』と呼ばれ、礼拝に属したものは『教令〔法令〕』と呼ばれたのである。特に『審判』については、それは本章に、また本章以下の幾多の章に含まれているものである。それらは天界と教会とに属している内なるものが外なるものにより表象されている教会では律法として役立ったのである。しかしそれらは、基督教会内のように、内なる物が最早外なる物により表象されていない教会では律法としては役立たないのである。その理由はこの教会の人間には内なる物が啓示され、それで天界との交流が内なるものにより行われて、以前のように外なるものによっては行われはしないということである。これが基督教会の人は『審判〔掟〕』、と『教令〔法令〕』と呼ばれているものをその外なる形で守る必要はなくて、それをその内なる形で守らねばならない理由となっている。にも拘らずその中に聖いものが宿っていることは、生贄について聖言に命じられている一切の物と同じく、それがその内に聖い事柄を含んでいるためである。こうした物は廃止されてしまったものの、それでもそれはその中に在って、それにより表象されている神的なものにより聖言の聖いものとなっているのである。なぜならそれが基督教徒により読まれている時、その中に在って、表象された神的なものが諸天界で認められ、天使たちを聖いもので満たすと同時に、その天使たちから発する流れが、(それを)読んでいる人間を、特にその人間自身がその中に存在している神的なものを考えるなら、満たすからである。このことから旧約聖書の聖言さえも極めて聖いものであることが明らかである。
天界の秘義9211
その律法は、生贄と他の凡ての祭儀とともに廃止されたのである。
天界の秘義9211[2]
従ってこの律法は当時かの民族を拘束したが、しかしそれは主により内的なものを啓示されている基督教徒を拘束はしないのである。それがそうであることは今日の教会の人間に知られており、それで今日では高利の律法は全く異なっている。にも拘わらずこの律法の聖さはその理由のために廃棄されはしないのである、即ち、この聖言は撤廃されてはいないのである、なぜならその神聖さはその内にある内的な事柄のために存続しているからである。この聖い内的な事柄がこの聖言が読まれるとき依然天使たちを感動させるからである。
3.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P208
主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イエズス・キリストの御命令により、聖ぺトロは御聖体とエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決意しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により主は、昔からの自然法と成文法を御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P141/171・4
十の戒律にはないが、恩寵を失っていて復讐しか理解出来ない獣のような人間に命じられた古い言葉、すなわち『目には目を歯には齒を』は廃棄され、新しい言葉、すなわち『あなたを憎む者を愛し、あなたを迫害する者のために祈り、あなたを誹謗する者を赦し、あなたを呪う者を祝福し、あなたに損害を与える者を恵み、喧嘩好きの人とは温和に接し、厄介な人には親切にし、あなたに助けを求める人には否でも応でも援助の手を差し延べ、利子を付けて貸してはならず、批判せず、裁いてはならない』によって、確かに廃棄されました。あなたたちは人びとの行動の証拠を知りません。あらゆる種類の救助に寛大で慈しみ深くありなさい。あなたたちはより与えるほどより与えられるでしょう。神は寛大であった者に、押し入れ、揺さぶり、零(こぼれ)るほど升の量りをよくして懐に入れてくださるでしょう。神はあなたたちが与えただけあなたたちに与えるのみならず、それよりももっと与えてくださるでしょう。愛し愛されるように努めなさい。争い事は友好的な妥協よりも犠牲を出し、愛想よさは舌にその味覚と共に長く残る蜂蜜のようです。