利己主義

 

 

自己愛

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「このようなかけがえのない機会は、この世の合理主義者たちのよくいう主観作用でしかないのでしょうか。わたしは、この啓示は客観的で現実のものと、心から信じています」

 

メルキゼデク:「子よ、この世の識者のいうことに心悩ましてはならない。彼らのほとんどは神なき利己主義者である。彼らがこれほどまで誤った考えをし、愚者を手引きする愚者と化しているのはこのためなのだ。神のお造りになられた世界はすべて、神の中に、神を通して存在するとはいえ、被造物そのものは神ではなく、神の一部でもない。だが、それは神の存在を離れては存在しえない。これは、被造物が客観的形をもたず、ただの主観にすぎないことを意味するものであろうか。断じて、そのようなことはない。事実、わが民の経験する神との出会い、霊的経験はみな、主観でも想像の所産でもなく、客観的で真実のものである。それは、疑いもなく、彼らがわたしと交わった所産なのだ」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P178

 

4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。

 

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P358

 

真のクリスチャンは、キリストとともにいるばかりではない。彼らはキリストの中に生き、キリストも彼らの中に生きている。そして、キリストは永遠に生きられるため、彼らもまた、死を通して死を克服されたキリストとともに永遠に生きる。この新生命において、彼らは自分のためではなく人のために生きる。神との交わりをもっていることのほかに、人間の社会的本能が同胞との交わりを求めさせるからである。また、人間相互の幸福は相手の福祉に関心を寄せ合うことにかかっているからだ。互いの幸福は利己主義によって毒される。「あなた方は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とキリストがいわれたのもこのためであった。真の愛があるところ、人を幸せにしたいという願いがあり、自らすすんで人にすることしか他に求めない。天の父の御前では、この方法によって、神の子らの互いの幸せが保たれている。

 利己主義は、霊魂のあらゆる邪悪と不安の根源である。利己的人間は、人からの千の施しを忘れても、自分のした施しは一つ残らず覚えている。自分の千の欠点は忘れても、他人の欠点はどんなささいなものでも見逃さない。「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨てて日々十字架を負いわたしについてくるように」(ルカ9・23)とキリストがいわれたのは、このためである。神の御旨(みむね)を行なうために自分を捨てる者は、自分を造ってくださった神の御旨を行なうときに自分自身の意志も全うすることになる。例えば、愚かにも、自分のやり方が最善だと思っていても、神の示される方法をとるしか道がないことがわかる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P434

 

 キリストに従う者は自我を退け、キリストを証言するために苦しみの十字架を負う。自分の利益ではなく、人のためになることを求めるときに、われわれの人生は百倍も豊かになる。