理解は信仰に服従しなければならない

 

 

天界の秘義10786

 

星天の第六の地球について

 

私たちは彼らに、私たちの地球では内的な認識を僅かな者しか得ていません、それは彼らはその青春時代に真理を学びはしますが、それを実践しないためです、と話した。なぜなら人間には理解と意志と呼ばれる二つの能力かあり、真理を記憶より先へは許容しない、かくて理解へ若干許容はするが、生命へは、すなわち、意志へは許容しない者らは主から全く明るくされることは出来ないからであり、または主から内的に見ることは出来ないため、彼らは事柄が信じられなくてはならない、または人は信仰を持たなくてはならないと言うのである。

 

 

 

天界と地獄270

 

しかし第一の天界または最低の天界の天使たちにはただ生命の第一の度のみしか開いていないため、彼らはそのように神的諸真理をその内部に刻み付けられていないため、真理について論じており、そして論じる者たちはその論じている事柄の事実の先には何ものも殆ど見ず、またはその主題の先には進まず、ただそれを或る事柄で確認しているに過ぎない、そして彼らはそれを確認すると、それは信仰の事柄であって、信じなくてはならないと言うのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説564

 

新しい教会には、理解は信仰に対する服従の下に捕らえておかなくてはならないという、そうした教理は斥けられ、それに代って、教会の真理は、それが信じられるためには、見られなくてはならないという、そうした教理が受け入れられているため(224番)、また真理は合理的にのみしか見られないため、それで合理的に理解された真理から、と言ったのである。救いと永遠の生命に関わる事柄において己が理解を閉じ込めてしまう者はどうして主により導かれて、天界と連結されることができようか。明るくされて、教えられるものは理解ではないか。そして宗教により閉じ込められた理解は暗闇以外の何であろう、しかもそれ自身からそれを明るくする光を斥けてしまうような暗闇以外の何であろうか。さらに、たれが真理を見ない限り、それを承認して、保有することができよう。見られはしない真理は、理解されはしない声ではなくて何であろう、それは感覚的な、形体的な人間のもとでは、普通記憶の中に保有されはするが、賢い者たちのもとには在り得る筈はない。実際賢い者たちは空虚な、また無意味な言葉は、すなわち、理解から入っては来ないようなものは、記憶から投げ棄ててしまうのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説575

 

竜は彼らを通して、特に彼らの宗教の以下の教理を通して遍く浸透して、支配するのである、すなわち、理解は信仰に服従しなくてはならない、それは理解されはしない信仰である、霊的な事柄で、理解される事柄に対する信仰は知的な信仰であって、義とはしない。こうした事柄が一般信徒に遍く浸透すると、教職者連はその知っていると一般信徒から信じられもし、またその口から受け入れられねばならない神的は事柄により、権威と尊崇と一種の崇拝を得るのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説611

 

 あなたらが天界から落ちて行くのを見た者らは、またあなたらの目に死んだ馬のように見えた者らは、理解は信仰に服従しなくてはならないというそうした特殊な教理により、その者ら自身と他の者らとの中に合理的な視覚を閉じてしまった者らであって、以下のことを考えはしないのです。すなわち、理解が宗教により閉じられると、それはもぐらのように全く盲目となり、その中にはただ暗闇のみが在り、実に霊的な光をことごとくそれ自身から斥けてしまって、その霊的な光が主から、また天界から流入してくるのに対抗して、信仰的な事柄では、合理的な部分の遥か下に在る感覚的な形体的な部分の中にその流入に対し障壁を打ち立て、すなわち、それを鼻の近くにおき、その鼻の軟骨の中に固くすえて、そのため彼らはその後では霊的な事柄を匂ぐことさえもできなくなり、そのため或る者は霊的な物から匂いをかぐのみで気絶してしまうほどにもなっているといった暗黒が在るのです。匂いによりわたしは認識を意味しています。これらが神を三神とする者らです。彼らは実際本質から、神は一人であるとは言ってはいますが、しかしそれでも彼らの信仰から、すなわち、「父なる神は御子のために慈悲を抱かれて、聖霊をつかわされる」というその信仰から祈るときは、明らかに三人の神を作っているのです。彼らはそうしないわけにはいかないのです、なぜなら彼らは一人の者に向って他の一人の者のゆえに慈悲を持たれて、第三の者をつかわされるようにと祈っているからです。』それからその教師は主について、主は一人の神であられ、主の中に神的三一性が在ることをかれらに教えたのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説914

 

しかし神学的な事柄においては理解は何一つ見ることはできない、教会の教えることは盲目的に信じなくてはならない、というかの教義を確認した者らは、いかような真理も光の中に見ることはできない、なぜなら彼らは彼ら自身へ流れ入る光の道を妨害しているからである。この教義を改革派教会はロマ カトリックの宗教的信念から保有しており、その信念は、教会そのものを除いては―この教会により彼らは法王と法王の枢機卿会議を意味しているが―何人も聖言を解釈してはならない、その教会により布告された教義を凡て信仰をもってかき抱かない者は異端として考えられなくてはならず、呪われた者であると宣言しているのである。これが事実であることはトレント会議の文句から明白であって、その中にはかの宗教の教義の凡てが確立されており、その最後に以下の語が見られる、「かくて議長モロヌスは言った、『安んじて行かれよ』と。これに歓呼の叫び声が続き、特にロラインの枢機卿と教父たちの以下の宣言が続いた、『私らはまた信じる、私らは凡てこの見解そのものを奉じる、私らは凡てそれに同意し、それをかき抱き、それに同意する、これは祝福されたペテロと使徒たちとの信仰である、これは教父たちの信仰である、これは正統派の信仰である。然かあらんことを、アーメン、アーメン、凡ての異端者に呪いあれ、呪いあれ。』」かの会議の教令は本書の冒頭にあらまし引用したが、実に、その中には殆ど一つの真理も存在していないのである。こうした事柄を引用したのは、改革派はかの宗教的信仰から盲目の信仰を、すなわち、理解から分離した信仰を保有していることを示すためであり、今後はそれを保有する者らは主から神的諸真理を明るくされることはできはしない。理解が信仰に対する服従の下に捕われている限り、または理解が教会の諸真理を見ないように遠ざけられている限り、神学は単に記憶の事柄に過ぎず、単に記憶の事柄に過ぎないのは、判断から分離した凡ゆる物のように、消散し、その曖昧さのために死滅してしまうのである。かくて彼らは―

 

 目しいた者らの目しいの指導者であり、目しいた者が目しいた者を導くときは二人とも溝に落ち込んでしまう(マタイ15・14)。

 

のであり、彼らは戸を通って入らないで、何か他の道から入って行くため、目しいた者である、なぜならイエスは以下のように言われたからである―

 

 わたしは戸である、たれでもわたしによって入るなら、救われ、出入りし、草地を見出すであろう(ヨハネ10・9)。

 

『草地を見出す』は、神的諸真理を教えられ、明るくされ、それで養われることである、なぜなら戸を通って、すなわち、主を通って入る者たちは、同章に(ヨハネ10・1、2)『羊の羊飼い』と呼ばれているからである。それゆえ、友よ、主も御許へ行き、悪を罪として避け、信仰のみを斥けられよ、そのときはあなたの理解は開かれで、あなたは驚くべき事柄を見られ、またそれに感動もされるであろう。

 

 

 

真の基督教338

 

使徒たちの信仰は主イエス・キリストに対する信仰であったことは、かれらの書簡の多くの記事によって明白である。その中から私は以下のもののみを引用しよう。

 

「もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは我を愛して我がために己が身を捨てたまいし神の子を信ずるに由りて生くるなり」(ガラテヤ2・20)。

 

パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めとわれらの主イエス・キリストに対する信仰を」証した(使徒20・21)。

 

「彼パウロを連れ出して言う、君らよわれ救われん為に何をなすべきか。彼言う、主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救われん」(16・30、31)。

 

(中略)

 

 

彼等の信仰はイエス・キリストに対するものであり、且つ彼によって鼓吹された故、彼等は上述の如く(ガラ2・16)また以下の記事におけるが如く、これをイエス・キリストの信仰と呼んだのである。

 

「イエス・キリストを信ずるによりて、凡て信ずる者に与えたまう神の義なり。これイエスを信ずる者を義としたまわんためなり」(ロマ3・22,26)。

 

「キリストを信ずる信仰による義すなわち信仰に基づきて神より賜る義を保ち」(ピリピ3・9)。

 

「これは神の誡命とイエスを信ずる信仰とを守る者なり」(黙示録14・12)。

 

「キリスト・イエスを信ずる信仰によりて」(テモテ後書3・15)。

 

「キリスト・イエスにありては、ただ愛によりてはたらく信仰のみ益あり」(ガラテヤ5・6)。

 

これらの記事はパウロのかのしばしば繰返される記事、「されば我らは思う。人の義とせらるゝは律法の行為によらず、信仰に由るなり」(ロマ3・28)の信仰の意味を示している。

 

すなわち、それは父なる神に対する信仰ではなくその御子に対する信仰であり、ましてそれは三人の神―その中の一人からその中の他の一人のために、しかしてその中の第三の者を通して救いが来る―に対する信仰でないことを示している。教会はその三人格的信仰がパウロによりこの記事に意味されていると信ずるのは、ニカヤ会議以来、これが真の信仰、唯一可能の信仰として認められ、それ故、「信仰」なる語が新約聖書に用いられる時は常に、三人格的な信仰が理解され凡ゆるものがこれに一致させられているからである。その結果、救い主なる神に対する信仰である唯一の救う信仰は滅び、多くの虚偽と荒唐無稽な逆理が教会の教義に忍び入ったのである。

 

何故なら、天界または救いに至る道を教え、これを指示する教会の教義は凡て信仰に依存するからであり、凡てこれらの虚偽と逆理が信仰に入り込んだために、理解は信仰に従属しなくてはならないという教理が布告された。

 

しかし上述のパウロの引用文(ロマ3・28)の「信仰」はその書簡の後続の部分から、またガラテヤ書の類似の記事(2・14,15)から明白であるように、父なる神に対する信仰ではなく、子なる神に対する信仰を意味し、「律法の行為」は十誡の行為ではなく、ユダヤ人に与えられたモーゼの律法の行為を意味しているのである。かくして現今の信仰の基礎は崩壊し、その上に建てられた神殿は屋根のみが表面に現れている家の如く地に沈んでしまったのである。

 

 

 

真の基督教840

 

私は天使たちがこの啓示を歓んでいることを聞いたが、それは現今まで理解は信仰に服従しなくてはならないという教義により閉じ込められていた人間の理性との交渉がその啓示により開かれるからである。

 

 

 

遺稿 神学論文集 P72

 

法王派により手渡され、抵抗派(プロテスタント)により受け入れられた教義は、すなわち、理解は信仰に服従するように足かせをかけられねばならないということは、二度教会を閉じ込めてしまったのであり、主により明るくされている理解を除いては他のいかようなものが教会を開くことが出来ますか、しかしこの主題については「啓示による黙示録解説」(914番)を参照してください。

 

 

 

神の愛と知恵374

 

さらに、宗教の凡ての物は、即ち、霊的なものと呼ばれる凡ての物は、全基督教会の教会により―即ち、会議と指導者たちにより制定されたところの神学的な事柄は、即ち、霊的な事柄は、(彼らの言うところによれば)理解を超越しているため、盲目的に信じられねばならないという教義により―人間の視野から追放されてしまっているため、これらの事は現在までは認められておらず、また知られていないのである。それ故、或る者は霊的なものは視力の届かない空気の上の

エーテルの中を飛んでいる鳥のようなものであると考えたが、しかしそれは眼の近くを飛んで、瞳孔にその美しい翼で触れさえもし、見られようと切望している楽園の鳥に似ているのである。視力により知的視力が意味されている。