煉瓦
天界の秘義1296
「さあ、煉瓦をつくろう」。
これはかれらがかれら自身のために作り上げた誤謬を意味していることは『煉瓦』の意義から明白である。聖言では『石』は真理を意味しており、それで『煉瓦』はそれが人間により作られるため、誤謬を意味している、なぜなら煉瓦は技巧的に作られた石であるからである。
天界の秘義6669
『煉瓦』の意義は彼らの案出する誤謬である(1296番を参照。奈落の輩の考案し、案出する悪と誤謬については、すぐ前の6666番を参照)。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P153
‘88・3・9
♡ 来て悔い改めなさい、サタンの声に耳を傾けないように、あなた方を無限に愛するため 皆を一つにしようとして訪れた、被造物よ! ♡ あなたの神である私とともに歩みなさい、我が家、今や荒れ果てたこの家を修復するための煉瓦を どかしたり、け飛ばしたりしないでほしい。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pviii
ヴァッスーラ:そうですね、マリア様からの強い一致の呼びかけがあります。そのメッセージをお読みする前に、一般的な「一致」の解釈には同意できないと申し上げたいのです。ギリシャ正教では時々、兄弟のローマ・カトリックが、ギリシャ正教になるなら一致が実現すると言います。そしてカトリックでは時々、皆がローマ・カトリックになるのを期待しています。これが人間の考え方です。天国ではこうした考え方ではありません。天国では一致を、一人ひとりの心のうちに築くものと見ています。私は今でもギリシャ正教です。ギリシャ正教徒のままです。ギリシャ正教を実践していますが、カトリックの兄弟のもとに行っても壁をつくりません。この方がたの教会に行きます。イエスはどこへでも私をお遣わしになるのです。ギリシャ正教のもとだけでなく。心のうちに、心をもって一致すべきです。
今は廃墟となっている教会の上に、イエスが建てると仰っている教会について、それは、いわば分派のように、全く新しい教会を造るのではなく、「初代教会に似せて、唯一であり 一致し、愛と謙遜という基礎の上に築く」と言っておられます。 ― 互いを受け入れ、イエスに向かって一緒に、祈りを捧げるのです。
ではマリア様が話しかけられておられる箇所を読みます:
「反逆は兄弟の間で一致を妨げます。心の不誠実は神の杯をさらに満たしていくことになります。彼らは我が子のからだをねじ曲げ、分裂させ、手足を切り落し、麻痺させてしまいました。思い出させましょう あなた方は皆 主を通して、唯一の霊のうちに、御父のみもとにいたる自分の道があるのです、ですのに我が子の名のもとに 別れたままでいます。一致と平和をあなた方は口にしますが、それを実践する人びとに対しては罠を仕掛けます。神は欺かれません、あなた方の理屈に納得もされていません。
神の国は口にのぼる言葉だけにとどまりません。神の国は 心のうちにある愛、平和、一致と信仰、それは心の中で一つに一致している主の教会なのです。一致の鍵は愛と謙遜です。イエスはあなた方の分裂をお勧めになったことはなく、ご自分の教会の分裂は イエスのお望みではありませんでした。心と声をもって一致し 我が子の初代教会を心の中に再び築いて下さるようにお願いします。我が子の初代教会と申しているのは、その教会が愛、素朴、謙遜と、信仰に基いていたからです。改めて新しい組織を造り上げるのではなく、心の中の組織を造り直すようにと申しています。心の中にある古い煉瓦、不一致、不寛容、不実、赦しの拒み、愛の欠如という煉瓦を壊して、我が子の教会を 和解によって造り直すのです。非常に大きな霊の貧しさと 溢れるほど豊かな寛容が 要求されます、そして屈まなければならないと理解するまでは、一致できないでしょう。」(ノート54、‘91・9・23)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvii
「悲しまないように、友よ 私を愛する者たちよ、 私の堪え忍んでいるものを忍びなさい、しかし、私を慰め 信じるように。私の名のもとに 大いなるわざをなし遂げるであろう。 私が寛容であるように寛容でありなさい。 私は飢え、渇き しばしば餓死しそうであったが あなたは助けに来てくれた。善いわざを続けなさい 報いよう。まことに言う あなたは独りではない、私がともにいる。 私と一致し 平和のうちに生きるように。あなたは私の血の子孫 王国の跡継ぎです。主の心が愛であり 掟の心は愛に基いていることを伝えなさい。私の家に管財人は不要だと 私の者たちに伝えるように。この者たちは私の日に正当化されることはない 我が家を一つの事業としてしまったのはまさにこの者たち。 あなた方の心に住むように 私は、我が霊を送った、このため 私の教会があなた方の心のうちに再建され、心のうちで互いを兄弟と認め合うようになるのを あなた方のうちに住む霊が 指し示して下さるであろう。」(ノート55、‘91・9・9)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P38
‘89・11・13
あなたに平和、我が子よ。 愛ゆえに愛をもって宣教しなさい ♡ 教会は生き返ろう、自らを教会内部の高い座に据えたすべてのペテン師を私 主は打ち倒すであろうから。 娘よ、私の頭に突き刺すこれらの刺、これほど血を流させるもととなっている刺を抜いてほしい、怖れなくてよい 娘よ 傍らにいる。 そしてまことに言うが 我が威力と大いなる慈悲をもってこれら一人ひとりを打ち倒す。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P73
‘89・12・23
♡ 愛によって棘を抜くことができる。 私を愛しなさい、愛しなさい ヴァッスーラ、我が膏薬となりなさい、私を慰め 小さな霊魂たちを連れて来なさい、私の心を示し、その愛を知らせなさい、棘を一本一本取り除き 小さな霊魂たちと置き換えなさい・・・我が家は途方もない修復を必要とする、しかし私が一枚ずつ煉瓦を積み重ね、漆喰を塗り、建て直そう、我が家は途方もない攻撃を受けているが、私 主は、ついに勝利するであろう ♡ そうしたら清らかな霊魂たちに手ずから食べさせ 彼らは:「アッバ」と言うようになる。 神聖さは腐敗に打ち勝とう、世の悪徳を通して 我が子たちを無神論者に仕立てた腐敗に ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P173
‘90・6・27
我が都市は自身の廃墟の上に再建されると 覚えておきなさい。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P180
‘90・7・6
たとえ敵が この大背教を我が教会の中に そして災いをもたらす忌むべきことを 聖所の中心に持ち込み その傲慢さゆえにまだ手放そうとしなかろうが、私の名が聖として保たれるように 見届けよう。 まことに言うが 我が住まいは その旧い煉瓦の上に建て直されよう、私がこうした知者を襲い 彼らのいわゆる知恵と 我が至聖に対する敵意をすべて破壊する日は近い。 これ以上はびこらないよう それらを根こそぎにしよう。 彼らは私に背いた、そう背教をもって歩むのに慣れ、我が至聖と戦う武器、合理主義を道案内 および旅仲間としている。知識に渇いている人は私のもとに来て 飲みなさい 生ける水を与えよう、自らの合理主義に基く人間の教義を 飲みに行かないように。 その人間は人の名誉を 神からの名誉に優先させている。 そこでこうした者たちについて言う: 世の中でよく思われる時は あなた方にとって悲しいかな!! 地面の上から 話すことになる日が来る、しかしその声が私に届かないうちに 塵と自分たちの罪の ぶ厚い層にかき消されてしまうであろう。 義は勝利する ♡
はっきりと言うが この来たるべき日々に、サタンとすべての悪霊は 以前のような目立たない仕方で働くことはない。 そうでない、悪霊たちが地上の住人すべてに 堂々と自らを現す時が今やって来た。 サタンは偽預言者たちを送り 砂のように倍増させ、あなた方のさ中に混乱を引き起こし、選ばれた人びとさえ欺こう、そこで誰にも騙されないように注意していなさい。 この印は 来たるべき大いなる印の前ぶれとなる印です。 今日の悪魔は傷を負った野獣のように、さらに危険を増している、しかし私を愛する人びとよ 怖れなくてよい、あなた方の憧れる安全をかなえよう。 しかし我が教会に大いなる背教をもたらし聖所を汚した者たちは悲しいかな、彼らの上には硫黄と火が降りかかろう! まことに言う、ジャッカルの住むねぐら(*)を通って: 聖なる道 と呼ばれ 汚れない、本道が間もなく敷かれよう。汚れた者たちはそこを通さない、だが生ける人びとはそこを歩もう、彼らはどう礼拝するかを知っていて ひざを屈めて私に言う:アーメン・・・アーメン・・・♡ 小さな子たちよ、決して互いに恨みを抱かないように、一致しなさい、一致しなさい、一つとなりなさい。 あなた方にこれを求めているのは私 イエスです。 皆を祝福し 愛の溜息を 額に残す、あなた方を私のものとして刻印する溜息を ♡
*ここでイエスは聖所に住むフリーメーソンに言及しておられます。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P184
‘90・7・8
書くように 我がヴァッスーラ: そして今日も養い続けている ということを。 我が救いの約束にたいして私が卓越し 忠実であるのに気づき 理解しなさい。 あなた方の世代に 何一つ秘密として隠してはおかない、間もなく開かれた本道を描き出すからです、それは汚れなく、開いた聖櫃にまで連なり 私が: 聖なる道 と呼ぼう、ジャッカルたちのねぐらはこれまで! 闇の中を徘徊するのも これまでです! 私 主は、すべてを明るみに出そう、二度と闇は訪れない、永遠に私の光が皆の上に輝くからです、そう、この開かれた本道には我が知識をくりひろげ そこへと導くために指標を置こう。 道の指標はしっかりと示そう。 そしてあなた方の神 私を熱心に拝する霊を授け 放蕩息子や放蕩娘たちを熱い愛をもって腕の中に連れ戻そう、それで彼らも我が光のうちに生き、こうして天全体がその立ち帰りを祝うであろう。 誰も:「わたしたちの主はどこか?」とは言わないであろう 心に深く我が掟を印すからです、この約束は私の眼前に刻まれ、私は旧い煉瓦の上にエルサレムを築く。
我が再臨にあたって 私は聖性を見い出すと期待していた、しかし我がからだをむしばむ当てにならない民を見い出した、愛を期待していた、しかし彼らの荒廃したさ中からは 憎しみの叫びしか聞こえてこない。 かつて与えた彼らの栄光と美はどこか? 注いだ霊はどこか? このカインたちは光の代りに闇を 闇を光に置き換えた、彼らは霊性を取り去り 命令として与えてある神聖な我が掟を、すべて無視し 足げにしている。 この時代は我が掟をはばみ、その細部にいたるまですべてを否定する。 我が律法を受け入れ守る人は私を愛する人だと はっきり言わなかったか?
あなた方の時代に法の博士と自称する者たちは多いが 自らの用いる論拠も 支持する説も理解していない、ああ 彼らのおしゃべりはどれほど飽き飽きするか! 私を飽きさせているのは 我が知識も掟も彼らが擁護しないためです。 私はこのメッセージを通して責めに来たのではない、愛ゆえに警告を与え 昏睡状態から目覚めさせに来た、司祭から信徒にいたる、残りの人びと、私を愛し忠実に留まり 我が象りを反射する人びとを励ますためにも訪れた: 愛を現す人びとよ、あなた方のために 開かれた本道を敷こう、祝された人びとよ。 その両側には実のなる木を植えるであろう(*)。あなた方の土は多くを養い 誰もその土からなる果実を損なったり 実をつけないようにはさせられない。あなた方は皆:忠実な者 と呼ばれ 傲慢 欺瞞や合理主義とはいっさい関わりないであろう。 あなた方の実は飢えた民、無神論に陥ったくに民を養う ♡ 皆には古来の衣装(*)をまとわせ、古い礎の上に我が教会を建て直す。私は花嫁を古来の宝石で飾る。 そしてあなた方の口は絶え間なく私をほめ讃え 讃美しよう。
*初代教会
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P197
‘90・7・30
そう、私の言葉を伝達する道具は貧しく、ふさわしくはない そしてありふれている。 世がつまらない 軽蔑すべき者と考える人びとを 私はまさに選ぶ―何らかの場を得ている者を無力とするために(*) 無に等しい者を選ぶのです、知恵は子どもでしかない者たちに与えられ 自らを知者と呼ぶ者たちにではない。 聞きなさい、知恵は徳があり聖であると自ら誇り そう自称する者たちにとっては謎として残ろう、知者の知恵を確かに打ち砕く そして彼らの受ける判決は一層厳しいであろう。 私に向って: 「アレルヤ、アレルヤ」と言える 身分の低い卑しい民を彼らのさ中に残そうと思う。 この民は昼も夜も、夜も昼も、我が天使たちの歌声に合わせて:「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、神なる主、万軍の支配者:前ににもおられ、今もおられ やがて来られるかた(**)」と歌う。 彼らを妨げる者はもういないであろう、そのさ中からあの誇る者たちをすべて取り除くからです。
* 1コリント書1・28
* *黙示録4・8
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P256
‘91・11・14
アイルランドへのメッセージ
あなた方は我が聖所の煉瓦であり 同時に我が家を造り上げる者たち。 一致して 再び集まるなら、建物は建ち上がる、しかし分かれたまま散らばっているなら すでに崩壊したものをどうやって建て直せばよいのか? 一つにまとまって我が家を築き直すのに 皆が一緒になってほしい ♡ どの煉瓦もすべてなくてはならない。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P137
‘92・9・14
―私がよそ者だった時 あなたは迎え入れてはくれなかった、戸口に立って扉をたたいても それが耳に入らなかった。 私は真理を語っていたが、あなたは私を裁き 非難し、その舌で絶えず私について 不正な偽りを述べていた。 私はセンスのよさを教え 我が知識、指導力と奉仕を 思い出させに来た、しかしあなたは私を嘲り ひやかした。 あなた方皆を 我が心のうちに一致させ 初代教会の決まりをはじめから教え直そうと熱望し 愛といたわりをもって訪れたが、あなたの霊は 自分でつくった決まりに囚われるのを許し 私をその心から締め出した。 あなたは尋ねよう:「いつ、私はそんなことをしましたか 主よ? あなたに言っておく、私はすでに そうした仕打ちを受けている。 あなたは未熟な判断を下し唇で私を非難した、我が特使たちにしたことは 私にしたころ。 あなたは私を喜ばせると考え、彼らの名を汚した、しかし実際に汚していたのは私の名。 私のことばを受け取らず 兄弟と和解しないまま:「みことばは わが主よ、私の足の灯火、歩む道の光」と どうしていまだに言えるのか?