霊的な死
天界の秘義5070
義しい者に与えられる永遠の生命は善から発している生命である。善は、生命そのものであられる主から発しているため、それ自身の中に生命を持っている。主から発している生命の中には知恵と理知が存在している、なぜなら主から善を受けて、そこから善を意志することは知恵であり、主から真理を受け入れて、そこから真理を信じることは理知であり、この知恵と理知とを持っている者は生命を持ち、そしてこのような生命には幸福が結合しているため、永遠の幸福もまた『生命』により意味されているからである。
悪の中にいる者らの場合はそれに反している。これらの者も生命を持っているかのように―特にこれらの者自身には―実さい見えはするものの、しかしそれは聖言では『死』と呼ばれているような生命であり、また霊的な死である、なぜなら彼らはいかような善からも賢いのではなく、またいかような真理からも理知的なものではないからである。このことはたれであれその事柄を考察する者から認められることができよう、なぜなら善とその真理の中に生命が在るため、悪とその誤謬の中には、それらは対立したものであって、生命を消滅してしまうため、生命は在りえないからである。それで問題の人物は狂人に属しているような生命以外の生命は持たないのである。
天界の秘義6119
霊的な生命は真理に従った活動に在り、従って用に在るのである。なぜなら霊的な生命にいる者たちは、生命を目指して、すなわち、真理に従って生きるために、かくて用を目指して、真理に対する欲求と渇望とを持っているのである。それで彼らはいくたの真理を―それに応じて用が為されることができるのであるが、そうした真理を―受けることが出来るに応じて、霊的な生命を得るのである、なぜなら彼らはそれに応じて理知と知恵の光に浴するからである。それで真理が尽きると―それは、聖言で『夕』により意味されている蔭の状態が来るとき起ってくるのであるが(6110番)―霊的な生命は苦しむのである、なぜなら(そのとき)蔭、すなわち、霊的な死に属しているようなものが現れてくるからである。なぜならその場合彼らは以前のように光の中に留めおかれないで、部分的に彼ら自身のものの中へ連れもどされ、かくてその蔭から霊的な死、すなわち、堕地獄の映像が起ってくるからである。