霊的な者が教える

 

 

黙示録講解540ロ

 

なぜなら自然的な人は、霊的な人により導かれない限り、天界から全く光を得ないため、いくたの誤謬と悪の中にいるからである、なぜなら天界から光が霊的な人を通して自然的な人の中へ流れ入り、明るくし、教え、導くからである、自然的な人が霊的な人の監視の下に考え、行動しないときはそれとは正反対なものである、そのときはまたかれはしばりつけられているのである、なぜならかれは地獄から発している誤謬と悪とから考え、行動するからであり、このことがかれらはエジプトから連れ出されたとき、『奴隷の家から連れ出された』と言われているとき意味されているものである。

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P205

 

「そして私たちは、あなたのすべての行いを話し、それに書くべきでしょうか?」

「・・・もう言った事であるが、聖霊がその折々に話してよい事、あるいは黙すことについて、あなたたちを導くであろう。あなたたちは見たであろう。私は奇跡を行っていた時にベルゼブルと言われた。そして今、私がこんなにも超自然的に行ったと知ったら、何を言うだろうか?私は尚更に冒涜されるであろう。そしてあなたたちはその時期の前に迫害されるであろう。そうであれば、話すべき時に至るまで黙っていた方がよい」

「けれどもその時が、証人である私たちが死んでいる時であれば、どうすればよいでしょうか?」

「私の教会では、何時でも司祭たち、預言者たち、諸聖者たちによって、神感されている奇跡があるであろう。すなわち、すべての人々が望んでいる勝利の教会は、教える教会を独りぼっちでおかず、また教える教会は戦う教会も教えるだろう。それは幾つものグループではなく、一つのものである。互に別れたものではなく、愛と目的の一致を見るべきである。そうする事により、愛徳を知り、その国である天国で、その喜びを味わう事ができる。教会の神秘体においては、すべてが愛のために、愛において行われるべきである。なぜならば神秘体に回り巡らされている愛は血である。その事態によって、あなたたちは天において報いを得られると言ったと同じく、霊的な業もそれを得させる。そして真に言うが、死者が平和に入れるように死者のために祈る事は・・・あわれみのための大きな業である。神はそのためにあなたたちを祝福し、その祈りで煉獄で恵まれた人々は感謝するであろう。肉体の復活の時に、その人々が審判者であるキリストの前に集まる時に、私が祝福する人々の中に、煉獄における霊魂の平和のために善業と祈りをささげた人々がいる事であろう。真に言うが、善業の一つでもその効果なくして残るはずはなく、そして多くの霊魂は、別に宣教せず使徒的役割でもなく、また、修道生活にも入らずして、ただ煉獄の人々に平和を、また生きる人々の回心のために祈り、善業をささげた人々だろう。それに知られざる聖職者たち、神だけが見ている犠牲となった霊魂は、自分の一生涯を兄弟たちと神の栄光のために愛の絶えざる犠牲をささげた事により、主の働き人としての報いを受けるであろう。真に言うが、永遠の生命に入るには、いろいろな道がある。その一つの道は今言った事で、私の心に重要である。聞きたい事があれば、また話してもよい」