霊的自由

 

 

神の摂理73

 

「霊的自由」は永遠の生命に対する愛から生まれる。この愛とその喜びとは人間が悪を罪として認めて、そこからそれを欲することを拒み、それと同時に主を見上げない限り、何人にも得られない。人がこれを行うとき、その自由を与えられる、なぜなら何人も内的な愛または高い愛から発する内的な自由または高い自由によらなくては、悪をそれが罪であるために欲することを拒み、かくてそれを為すことを慎むことが出来ないからである。最初この自由は自由であるにも拘らず、自由のようには見えないが、後にはそのように見えてきて、そのとき人間は善で真の物を考え、意志し、語り、行うことにより理性に従って自由に行動するのである。この自由は自然的な自由が減退して、補助的なものになるにつれて増大し、合理的な自由と結合して、それを純化する。何人でももし生命が永遠のものであり、一時的な存在の楽しさと幸福とは永遠の生命の楽しさと幸福とに比較するなら

儚い影にすぎないことを反省しようとするなら、この自由を得ることが出来よう。人間はもし欲するならばそのように考えることが出来るのである、なぜなら彼は合理性と自主性を持っており、またこの二つの能力を彼に与えておられる主は絶えず彼にそのように考える能力を与えられるからである。