霊的貧困
真の基督教391
現今基督教界における真理の荒廃と神学の貧困は霊界の平信徒と教職者たちと語り合うことによって私に明らかにされた。教職者たちの間には、父、子、聖霊の三一性があり、信仰のみが救うということ以外には殆ど何事も知られていない程の、霊的貧困があるのである。基督と主については、彼らは福音書に述べられている歴史的な事実以外には何事をも知らない。しかし旧新約聖書が主について教えている他のすべてのことは、例えば父と彼とは一であること、彼は父の中に在り、父は彼の中に在ること、彼は天界と地上における凡ゆる権能を持つこと、人間が子を信ずることが父の意志であること、彼を信ずる者は凡て永遠の生命を持つこと等、これらの真理は恰も太洋の底に、或は地の真中にでも在るかのように、彼らには知られておらず、また彼らから遠ざかっている。そしてそれらの事が聖言から引用される時、聞かれはするが、しかも聞かれず、また風の囁き、或は太鼓の音の与える以上の深い印象は与えないのである。時折、天界の下の霊たちの世界の基督教徒の社会を訪ねるために、主によって遣わされる天使たちは、救いに関する彼らの愚鈍と無知に非常に心を痛める。その中の学者等は、自らは霊的な神的な事柄においては彫像と同様に理解を持たないことを自認しており、訪れてくる天使たちは彼らを話すオウムに譬えている。
真の基督教396
しかしながら本章及び自由意志、改良、再生等に関する各章が理性の光の中に明瞭に理解されるために、先ず意志と理解、善と真理、一般的な愛、個別的な世への愛と自己への愛、外なる人と内なる人、単に自然的な感覚的な人について、若干語っておかねばならない。そうでないならば、心的視覚は、深い霧の中に都会の街々をさまよい、家路を見出すことの出来ない人間のように曇るであろう。何故なら、神学は理解なくしては、何ものであろうか。聖言が読まれる時、昭示されない理解は、油を少しも持たない五人の愚かな処女たちの携えていた火のともらぬ燈火以外の何物であろう。我々は今各主題をその順序に従って考察しよう。