霊眼

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P196

 

第一節      “霊眼”が開かれるとき、聖霊である神をみる

 

弟子―ああ、生命の泉であれらます主よ、あなたを敬う者たちから、なにゆえお隠れになりますか。なにゆえに、あなたを仰ぎ見る者たちの目を歓ばせ給いませんか。

 

主―1.わが真実の子よ、真の幸福は視覚に頼るのではなく、霊の目を通して生まれ、胸に頼るのである。パレスチナでは、何千人もの人々がわたしをみたが、そのすべてが真の幸福を得たわけではない。滅ぶべき目がみるものは滅ぶべきもののみである。肉の目は不滅の神と霊的存在とをみることができないからである。例えば、あなた自身、自分の霊をみることができないのに、どうしてその創り手をみることができよう。だが、霊の目が開かれるときに、あなたは確かに聖霊である神をみることができる。そして、あなたが今わたしをみているのも、肉の目によってではなく、霊の目によってみているのである。

 パレスチナで何千人という人々がわたしをみたときに、彼ら全員の霊眼が開かれたのであろうか。それとも、わたし自身が滅ぶべきものとなったのであろうか。そのいずれでもない。わたしが滅ぶべき体をとったのは、その体においてこの世の罪の代償を与えるためであった。そして、罪人たちの救済の仕事が完了したときに、不滅のものが、滅ぶべきものを栄光へと変えたのである。そのようにして、復活のあとでは、霊眼を受けた者だけがわたしをみることができたのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P197

 

2.世には、わたしについて知ってはいても、わたし自身を知らぬ者が大勢いる。それは、彼らがわたしと個人的つながりをもたないからである。このため、彼らはわたしを真に理解することも信じることもなく、自分の救い主、主としてわたしを受け入れることもしない。人はいかに学識があろうとも、霊眼が開かれるまではわたしを知ることができない。わたしの栄光をみることも、わたしが神の受肉であることも理解できないのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P197

 

3.わたしの存在が霊的生命と平和をもたらすのを心中に感じとりながらも、わたしをみることができないというだけの信仰者も多い。それは、目は多くのものをみることができても、目に入った目薬まではみえないのと同じである。だが、薬が眼球を洗い視力を強めるのは感じとることができるのだ。