神の愛と知恵140

 

 霊とは何であるか、天使とは何であるかを先ず説明しよう。人間は凡て死後先ず天界と地獄の中間に在る霊たちの世界に入り、そこに己が時を、即ち己が状態を経過し、己が生命に応じて、天界か地獄か、その何れかに向かって準備する。人間はその世界に止まる限り霊と呼ばれている。その世界から天界に挙げられた者は天使と呼ばれるが、しかし地獄に投げ込まれた者は悪鬼かまたは悪魔と呼ばれている。これらの者が霊たちの世界に止まる限り、天界に向って準備をしている者は天使的霊と呼ばれ、地獄に向って準備をしている者は奈落的な霊と呼ばれ、その間天使的霊は天界と連結し、奈落的な霊は地獄に連結している。霊たちの世界の凡ての霊は人間に接合している。なぜなら人間は、その心の内部の方面では、同じく天界と地獄との中間におり、これらの霊を通して、己が生活に応じ、天界かまたは地獄かその何れかと連絡(コミュニケイト)しているからである。霊たちの世界と霊界とは異なっており、霊たちの世界は今語ったところであるが、しかし霊界はその世界と天界と地獄とを含んでいることに注意しなくてはならない。

 

 

 

天界と地獄521

 

 天界に入る道について、また人間における天界の生命について教えられていない者達は、天界へ迎えられることはただ慈悲のみから与えられそれは信仰にいて主の執成しを受ける者達に与えられ、かくてそれは単に慈悲から入ることを許されることであり、従っていかような者であっても人間は凡て主の善意により救われることが出来ると考え、実に地獄にいる凡ての者でさえも救われることが出来ると考えている者もいる。しかしそのように考えている者は人間について何ごとも知っていない、即ち、人間は全くその生命と同一のものであり、その生命は、その意志と理解とに属した内部のみでなく、その身体に属した外部の方面でも、その愛と同一のものであり、その生命は、その意志と理解とに属した内部のみでなく、その身体に属した外部の方面でも、その愛と同一であり、身体の形は単に外なる形であって、その中に内部はそれ自身を結果をもって示しているに過ぎず、従って人間全体はその者自身の愛であることを知らないのである(前の363参照)。彼らはまた、身体は身体自身から生きているのではなく、その霊から生きており、人間の霊は彼の情愛それ自身であって、その霊的な身体は人間の形をとっているその人間の情愛であり、それはまた死後その形をもって現れるということも知らない(前の453−460)。こうした事が知られない限り、人間は救いは慈悲と恩寵と呼ばれる神の善意以外の何ものでもないと信じるようになるであろう。

 

 

 

天界と地獄576

 

 人間に比べて霊たちはいかほどすぐれているかは、内的に考えて、自分自身の心の動きを多少なり知っている者により認められ、また把握もされることができよう。なぜなら人間は半時間をかけても口で言ったり、文字で表現することもできない事柄についてもその心の中では一瞬にして考察し、論旨を展開し、結論を下すことが出来るからである。ここから人間はその霊の中にいるときは、従って霊となるときは、いかほどすぐれた者となるかが明白である。なぜなら考えるものは霊であって、その霊がその考えることを身体を用いて、言葉や文章をもって表現するからである。ここから死後天使となる人間は、その者が世で生きていたとき持っていた理知や知恵に比較するならば表現も不可能なほどにもそれにすぐれた理知と知恵とを得る。なぜなら彼は世に生きていたときは、その霊は身体に縛り付けられて、身体により自然界にいたからである。そうした理由から彼がそのとき霊的に考えたものは自然的な観念[考え]の中へ流れ入ったのであるが、自然的な観念は比較的全般的なものであり、粗雑で、明確でなく、霊的な思考に属している無数な物を受け入れることはできず、また世の心づかいから生まれる雲の中にそれを包みこむのである。霊が身体から解放されて、その霊的状態に入るときは、―それは霊が自然界を去ってその属している霊界へ入るとき起るが―そうではない。そのときのその状態は思考と情愛との方面でその前の状態に無限にまさっていることは今語ったことから明らかである。ここから天使たちは言うに言われない、表現することも不可能な事柄を、従って人間の自然的な考えの中へ入ることの出来ないようなものを考えるのであるが、しかも天使各々は人間として生まれ、人間として生きたのであって、そのとき自分は他のそうした人間以上に賢いものであるとは自分自身には思われなかったのである。

 

 

 

真の基督教156

 

「人間の霊は彼の心であり、そこから発する凡ての物である。」

 人間の霊によってその心以外の何物も意味されない。何故なら、死後生きるものはこれであって、その時それは霊と呼ばれ、若しそれが善であるならば、天使的な霊と呼ばれ、後に天使と呼ばれ、若し悪であるならば、悪魔的な霊と呼ばれ、後に悪魔と呼ばれる。各人間の心はその内なる人であり、その内なる人が事実上その人間であり、それは彼の身体を形成する外なる人の中に在り、それ故身体が死によって脱ぎ棄てられる時、その内なる人は完全な人間の形を取って存在する。それ故、人間の心は単にその頭の中に在るに過ぎないと考える人々は誤っている。心の第一原理がそこに在るに過ぎず、人間が理解によって考え、意志によって行動する凡てのものはそこから発している。しかし、感覚と行動のために形作られたその派生物が身体の中に宿り、而して心は内的に身体の構造と関連しているために、それに感覚と運動を与え、またそれに認識を与え、恰も身体がそれ自らによって思考し行動するかのように見えるが、しかしこれは凡ゆる賢人が認めているように、迷妄である。さて、人間の霊は理解によって考え、意志によって行動する故、また、身体はそれ自らによって行動するのではなく、霊によって行動する故、人間の霊はその理知とその愛の情とを意味し、またそれから発し、それによって活動する凡ての物を意味することが推論される。人間の霊は心を意味することは聖言の多くの記事によって明らかであり、その真理を証明するため単にそれを引用するに止めておこう。以下は多くの記事から取った小数の記事に過ぎない。「ベザレルは知恵、悟り、知識の霊にて充たされぬ。」(出エジプト記31・3)ネブカデネザルはダニエルについて「知識、悟り、智恵の優れし霊は彼の中に在りき。」と語っている(ダニエル18・31)(以下略)

 

 

 

天界の秘義7648

 

遍く支配しているものはいかような性質を持っているかは、それが成功する時のその歓喜から、またそれが成功しない時のその苦痛から知ることが出来よう。人間を遍く支配しているものはその人間の霊の外なる形を作るのであり、その顔は全くそれに順応しているのである。もし悪と誤謬とが支配しているものであるなら、その霊の形は悪魔的なものであるが、もし善と真理とが支配するものであるなら、その形は天使的なものである。なぜなら霊は、それ自身において認められるなら、形をとった情愛[情愛の形]であり、その支配している情愛はその形そのものであり爾余のその諸情愛はその支配している情愛[の用]にそれ自身を充当[適用]させているからである。

 

 

 

 

 

神の愛と知恵38

 

聖言には、神的愛と神的知恵とは、『義(ライチャスネス)』と『公正(ジャジメント)』により意味され、神的愛は『義』により、神的知恵は『公正』により意味されている、この理由から『義』と『公正』は神の聖言の中に述べられている、例えば、詩篇に、「義と公正とはあなたの御座の支柱である」(89・14)。「エホバは義を光のように、公正を真昼のように輝かせたもうであろう」(37・6)。(中略)同じことがヨハネ伝の『生命』と『光』により意味されている、「彼の中に生命があった、生命は人の光であった」(1・4)。この記事の『生命』により主の神的愛が意味され、『光』によりその神的知恵が意味されている。同一のことがヨハネ伝の『生命』と『霊』によりまた意味されている。「イエスは言われた、私があなた方に語る言(ことば)は霊であり、生命である」(6・63)。