“霊”が鳩のように御自分に降って来るを、御覧になった。

マルコ1・10

 

マタイ3・16−17

 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 

マルコ1・10−11

水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

ルカ3・21−22

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降 

って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

ヨハネ1・32−34

 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 

 

天界の秘義2535

 

「かれはあなたのために祈るでしょう」(創世記20・7)。これは、それがそのようにして啓示されるであろうということを意味していることは、「祈ること」の意義から明白である。

 

祈りはそれ自身において観察されるなら、神と語ることであり、そのとき祈りの事柄を内的に観察することであって、それに対し心の中へまたは思考へ注がれる流入のようなものが答えられ、それで神に向かって人間の内部が或る程度開かれるが、しかしそれは人間の状態に従っており、また祈りの主題の本質にも従って相違しているのである。

 

もしその人間が愛と信仰から祈り、ただ天界的な霊的なもののためにのみ祈るなら、そのときその祈りの中に希望、慰安、または或る内的な喜びにかかわる啓示のようなものが生じて、その啓示は祈っている者の情愛の中に明らかに示されるのである。

「祈る」ことがその内意では啓示されることを意味しているのはこのことから来ている。

 

それは祈ることが主を意味している予言者について言われているここでは尚更のことであって、主の祈りは神的なものとの内なる談話であり、また同時に啓示である。啓示があったことはルカ伝に明白である―

 

「イエスが洗礼を受けて祈られた時、天が開くようになった」(ルカ3.21)。

 

同書に―

 

「かれがペテロとヤコブとヨハネを連れて、祈るために山にのぼられるようになった。かれが祈られていると、その御顔のようすが変わり、その衣服は白く輝くようになった」(ルカ9・28,29)。

 

ヨハネ伝には―

 

「かれが祈られて、父よ、あなたの御名を栄化してください[御名に栄えあらしめたまえ]、と言われたとき、天界から声が聞こえた。わたしは栄化してきた、さらに栄化しよう[わたしは栄えあらしめたが、さらに栄えあらしめよう]」(ヨハネ12・27,28)。

 

ここに主が「祈られたこと」は神的なものと話されたことであり、また同時に啓示でもあったことが明白である。

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教144

 

我々はイエスが洗礼を受け給うた時天界が開け、ヨハネは聖霊が鳩のように降るのを見た(マタイ3・16、マルコ1・10、ルカ3・21,22、ヨハネ1・32,33)という記事を読むが、これは洗礼は再生と聖化とを意味するために起こったので

ある。鳩もまた同様の意義をもっている。何人でも鳩は聖霊でなく、また聖霊は鳩ではないことを認めることが出来よう。

 

鳩はしばしば天界に見られ、それが見られる時、天使達はその鳩は近くに居る者達の再生と潔めとにかかわる情愛と思考との象徴であることを知るのである。それ故、彼らはその人々に近づき、何か他の主題について彼らと話を交えるや否や、その鳩は消え去って行くのである。

 

このことはヨハネがシオンの山に子羊を眺めた時のように(黙示録14章およびその他)、預言者達によって眺められた多くの事柄にあっても同様である。何人でも、主はその子羊でなく、又その中にも在し給わず、それは彼の無垢の象徴であった事を認めることが出来る。この事は明白に、主が洗礼を受け給うた際に見られた鳩によって、また天界から聞えてきた「是は我が愛しむ子なり」との声によって、三一性は三人格から成っていると結論づける者達の過誤を示している。