パン種

 

1.種を入れないパン

 

1.種を入れないパン

 

 

天界の秘義1001〔5〕

 

 さらに―

 

 あなたは必ず血を食べてはならない、血は魂であるからである、あなたは魂を肉と共に食べてはならない(申命記12・23−25)。

 

 この記事からも亦血は魂と呼ばれており、即ち、天的な生命または天的なものと呼ばれていることが明白であり、それがその教会のはん祭と生贄とにより表象されたのである。そして同じように、主御自身のものである天的なものは―それのみが天的な聖いものである―汚れたものである人間自身のものと混合してはならないこともまた彼らが種を入れたものの上に生贄の血を生贄としたり、捧げたりしてはならないという命令により表象されたのである(出エジプト記23・18、34・25)。種を入れたものは腐敗した、汚れたものを意味したのである。血が魂と呼ばれて、仁慈の聖いものを意味しているのは、また愛の聖いものがユダヤ教会で血により表象されたのは、身体の生命は血の中に在るためである。そして身体の生命は血の中に在るため、血は生命の究極的な魂であり、かくて血は形体的な魂であり、または人間の形体的な生命を宿したものであると言うことが出来よう。表象的な諸教会では内なる事柄は外的なものにより表象されたため、魂はまたは天的な生命は血により表象されたのである。

 

 

 

天界の秘義2177〔5〕

 

それに『種を入れない』ことは、またはそれを醗酵させないことは、それが誠実なものでなくてはならないことを、かくて誠実な心から発して、不潔なものであってはならないことを意味している。

 

 

天界の秘義2342

 

「種を入れない(パン)をやいた」。これは清められることを意味することは『種を入れない』または『醗酵しない』の意義から明白である。聖言には『パン』は、天的な霊的な食物を全般的に意味しており、かくて天的なものと霊的なものを全般的に意味している(276、680、1798、2165、2177番を参照)。これらのものは不潔なあらゆるものから自由でなくてはならないことは種を入れないパンにより表象されたのである、なぜなら『パン種』は、天的な霊的なものを不純なものにまた汚れたものにするところの悪い誤ったものを意味しているからである。こうした表象のために表象的な教会にぞくした者たちに、かれらはその生けにえにおいては醗酵しない、またはパン種を入れないパン以外のパンを、すなわち、素祭を捧げてはならないと命じられたのであり、このことはモーセの書に明白である―

 

 あなたたちがエホバに捧げる素祭はパン種で作ってはならない(レビ記2・2)。

 

さらに―

 

 あなたはわたしの生けにえの血をパン種を用いたものとともに捧げてはならない(出エジプト記23・18、34・25)。

 

 

天界の秘義2342[2]

 

 それでまた、モーセの書に述べられているように、過越節の七日間はかれらは醗酵しないまたは種を入れないパン以外のパンを何一つ食べてはならないと命じられたのである―

 

 七日の間あなたたちは種を入れない(パン)を食べなくてはならない、すなわち第一日にさえあなたたちはあなたたちの家からパン種をとり除かなくてはならない、なぜなら第一日から第七日までたれでも種を入れたものを食べる者はことごとくと、その魂はイスラエルから絶たれなくてはならないからである。最初の月に、その月の第十四日の夕から、その月の第二十一日の夕まであなたたちは種を入れない(パン)を食べなくてはならない、七日の間あなたたちの家にパン種があってはならない、なぜならたれにでも種を入れたものを食べる者は、その地に宿る者であれ、または(その地に)生まれた者であれい、その魂もまたイスラエルの会衆から絶たれなくてはならないからである(出エジプト記12・15、18−20その他、例えば出エジプト記13・6、7、23・15、34・18、申命記16・3、4)

 

ここから過越節は『種を入れないパンの祝宴』と呼ばれている(レビ記23・6、民数記28・16、17、マタイ26・17、ルカ22・1、7)。

 

 

天界の秘義2342[3]

 

 過越節は主の栄化を表象し、それによって神的なものが人類と連結したことを表象したことは主の神的慈悲の下に他のところに示されるであろう、そして主が人類と連結されることは愛と仁慈とそこから派生してくる信仰を通して遂行されるため、これらの天的な霊的なものはかれらのものが過越節の日に食べねばならなかったところの種を入れないパンにより表象されたのであり、そしてこれらのものが何か冒涜的なものにより汚されないように、種を入れたものは、たれであれそれを食う者は絶たれねばならないほどにも厳しく禁じられたのである、なぜならたれでも天的な霊的なものを冒涜する者は滅びないわけにはいかないからである。こうした秘められた意味を離れては、かくも苛酷な刑罰を附加されたこの儀式は決して与えられはしなかったであろうということはたれでも認めることができるのである。