恐れ
1.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている
天界の秘義389
『凡て彼を見つける者は彼を殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくが彼を破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、すなわち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎとる時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。
天界の秘義390
悪と誤謬の中にいる者は、モーセの書に以下のように記されているように、絶えず殺されはしないかと恐れている―
おまえらの地は荒廃し、おまえらの都は荒れはてるであろう、またおまえらの中で残された者にはその敵の地でわたしは恐れを抱かせよう。彼らは木の葉の動く音にも驚いて逃げ、剣を避けて逃れるようにも逃げ、また追う者もないのに倒れるであろう、彼らは追う者もないのに、剣の前にあるかのように、互いにその兄弟につまづいて、その上に倒れるであろう(レビ記26・33、36、37)。
イザヤ書には―
反逆者は反逆を行う、まことに彼らは反逆者の反逆をもって反逆を行う、恐怖の騒ぎを逃れる者は坑へ落ち、坑の中から出て来る者は罠にかかるようになるであろう。人の咎はその上に重く、それは倒れて、再び起き上がりはしない(イザヤ24・16−20)。
エレミヤ記には―
見よ、わたしは恐れをおまえにもたらす。おまえらは各々その顔の方へおまえらの周囲から凡て追い出されて、たれもさまよう者を集めはしない(エレミヤ49・5)。
イザヤ書には―
わたしらは馬に乗って逃げよう、わたしらは速いものに乗ろう、それでおまえらを追う者も速くなるであろう。一人が叱咤すると、一千人が逃げ、五人が叱咤するとおまえらは逃げるであろう(イザ0・16、17)。
聖言のこの、また他の記事に誤謬と悪の中にいる者は『逃れる』者として、また『殺される恐れを抱く』者として記されている。彼らは彼らを守ってくれる者をたれ一人持っていないため、凡ての者を恐れている。悪と誤謬の中にいる者はすべてその隣人を憎悪し、凡て互に他を殺そうとしている。
天界の秘義391
他生にいる悪霊の状態は、悪と誤謬の中にいる者が凡ての人を恐れていることを示している。自分自身から仁慈をことごとく剥奪した者はさまよって、彼方此方へと逃げて行く。凡て彼らの行く所ではそれがいかような社会であっても、その社会の人々は彼らが単に近づいてくるのみで直ぐさまその性格を認めるのである、なぜなら他生に存在する認識はそうしたものであるからである。彼らは彼らを放逐するのみでなく、激しく罰し、実に彼らを殺しかねないような憎悪を以って罰するのである。悪霊は互に他を罰し、責め苛むことに最大の喜びを感じており、それが彼らの最高の満足となっている。悪と誤謬そのものがその原因であることは今まで知られていなかったのである、なぜならたれでも人が他の者に望むことは凡てその人自身に帰ってくるからである。誤謬はそれ自身の中に誤謬の刑罰を持っており、悪はそれ自身の中に悪の刑罰を持っており、従って、彼らは自分自身の中にこれらの刑罰の恐怖を持っているのである。
天界の秘義939
卑賤なまでに貪欲であった者らの思考の観念は如何に卑賤な幻想に変化するかは、足下の深い辺りに在る彼らの地獄から明白である。煮沸器でその針毛をけずり落とされた豚から発してくる発散気のようなものがそこから発している。更に貪欲な者のホームが在る。最初そこに来る者は黒く見えるが、しかし豚がその針毛をけずり落とされるようにその髪をけずり落とされるため、自分自身には白くなったように思われる。その時そのように彼らは彼ら自身には見えるが、しかし依然そこから何かのしるしが残っていて、その印により彼らは何処に行こうと知られる。或る一人の黒い霊が霊たちの世界に更に長く止まらねばならなかったため、未だその者自身の地獄に連れられて行かなかったが、(その霊は他の者のように貪欲ではなかったものの、それでも生前他の者の富を邪にも渇望したのであるが)そこへ引き下ろされたのである。彼がそこへ着くとすぐにそこの貪欲な者どもは、彼が色が黒くて自分らを殺そうとしているから、強盗であると言って、逃れ去ったのである。なぜなら貪欲な者は己が生命を失うことを特に恐れ、こうした霊から逃れるからである。遂に彼らは彼がそのような強盗でないことを知ると、もしあなたが白くなりたいなら、あなたは単に豚のように―その豚は充分によく見えたのであるが―髪を取ってもらえさえすればよい、そうするなら白くなりますよ、と彼に告げた。しかし彼はそうしたことを願わなかったので、霊たちの間に取り上げられたのである。
天界の秘義6561
人は各々その兄弟または隣人を赦さなくてはならないことは教会の命令によっていることはマタイ伝の主の御言葉から明白である―
ペテロはイエスに言った、主よ、幾度私の兄弟が私に罪を犯して、私は赦すのでしょうか。七度までですか。イエスは彼に言われる、わたしは七度までとは言わない、七度を七十倍するまで、と言います(18・21、22)。
しかしユダヤ民族には、自分たちは決して赦してはならない、何らかの点で自分たちを傷つけた者は敵として考えなくてはならないということが刻みつけられていたため、それで彼らは、彼を憎み、その欲するままに彼を扱い、殺しさえすることも許されていると考えたのである。その理由はこの民族は内なるものを持たないで、ただ外なるものの中にのみおり、かくして内なる教会に何ら支配されなかったということであった。このことがヨセフの兄弟たちがヨセフは自分たちを憎んで、自分たちに悪を報いるだろうと非常に恐れた理由であった。
天界の秘義9327
真理には凡ゆる力があるため、悪から発した誤謬は、それは善から発した真理が剥奪され、かくて力が剥奪されたものであるため、何らの力もないことが生まれている。
従って地獄にいる者らは―そこの凡ての者は悪から発した誤謬の中にいるが―何らの力も持ってはいないのである。それで彼らの数千の者も、丁度空気中の埃のかけらが息で追い払われるようにも、天界のただ一人の天使によってすら追いやられ、投げこまれ、散らされもするのである。この凡てから誤謬の悪にいる者らが善の真理のために恐怖を感じる理由を認めることができよう。この恐怖は「神の恐怖(神を恐れる恐怖)」と呼ばれる。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・6・1
良心が疾(やま)しければ、いつもビクビクして落ちついていられない。
良心の呵責がなければ、あなたはユッタリと落ちついていられる。
よいことをした時でなければ、決して喜ぶな。
悪人にはけっしてほんとうの喜びというものがないし、内心(こころ)の平和も感じられない。なんとなれば「悪しき者には平和がない。」(イザヤ書48・22)と主も言っておいでになるからである。
イザヤ48・22
神に逆らう者に平和はない、と主は言われる。
天界の秘義9327
真理には凡ゆる力があるため、悪から発した誤謬は、それは善から発した真理が剥奪され、かくて力が剥奪されたものであるため、何らの力もないことが生まれている。従って地獄にいる者らは―そこの凡ての者は悪から発した誤謬の中にいるが―何らの力も持ってはいないのである。それで彼らの数千の者も、丁度空気中のほこりのかけらが息で追い払われるようにも、天界のただ一人の天使によってすら追いやられ、投げ込まれ、散らされもするのである。この凡てから誤謬の悪にいる者らが善の真理のために恐怖を感じる理由を認めることが出来よう。この恐怖は「神の恐怖(神を恐れる恐怖)」と呼ばれる。
慎重・・・狡猾
天界の秘義6655
「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)
これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、彼らの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。即ち、彼らは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、彼らの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜなら彼らはその隣人に対しては善以外には何ごとも願ってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それを赦すからである。悪にいる者らはそうではない。彼らはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜなら彼らは隣人に対しては悪以外には何事とも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜなら彼らは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、隠れた力を持っていることを知っているからである。