おしゃべり・議論

1.おしゃべり

2.道では挨拶しないように

3.議論・論争

4.他生では真理は論議を容認しない

5.知らないことをののしり

6.歯がみ

7.友情の社会

 

 

1.おしゃべり

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P45

 

 先生は大抵、口を開かず、ただ何かを教えたり、使徒たちの間違った考えを訂正したり、気の毒な人々を慰めようとするときだけ、話をする。イエズスは「みことば」であるが、決しておしゃべりではない。だれよりも忍耐強く親切である。

 

 

聖母から司祭へ1973.12.19

 

無益な討論のためにも、もう時間がありませんし、おしゃべりや計画のためにも、もう時間はありません。今はただ祈る時です!

(中略)一日のすべての瞬間を、私との語らいの時と変えなさい。ああ、子よ、あなたの声が聞きたい!すべてのことを祈りに変えなさい。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・2・2

 

 むやみに物事を知りたいと望む心を捨てよ。なんとなれば、それは心の乱れと迷いとを引き起こすに過ぎないからである。

 いろいろなことを知っている者は、とかく他人に博学と思われ賢い人と言われたがる。しかし、知ったところで霊魂に利益の少ないことや、あるいは全く利益のないことが多いのである。

 だから自分の救霊に有益なことを除き、その他のことを考えるのは、ほんとうに愚かである。

おしゃべりは霊魂を満足させぬ。ただ善良な生活だけが心をさわやかにし、潔白な良心が神に対する深い信頼を起こさせるのである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・10・1−2

 

 私は黙っていればよかったのに、人中(ひとなか)へ出なければよかったのに、と思うことがよくある。

 それにしても、私たちは口をつぐんでから良心に痛みを感じないことはめったにないのに、話ずきでおたがいにおしゃべりをしたがるのはなぜだろう?

 私たちが好んで話をするのは、それによってたがいに慰めを求め、種々の思いに疲れた心を休めたいからである。

 また自分の好きなこと、望みのこと、嫌いなことについて考えたり話したりするのが楽しいからである。

 

 しかし悲しいことに、それは往々なんの役にも立たず、むだになってしまうのである。なんとなれば、こういう外からの慰めは、神がお与えになる内心(こころ)の慰めを、少なからず妨げるからである。

 だから私たちは時間をむだにせぬよう、用心して祈らなければならぬ。

 話してもよいという許しが出た場合や、話すほうがよいような場合には、ただ徳を養う足しになるような話だけをするがよい。

 私たちが口を慎まぬのは、おもに悪い習慣と、欠点を改めることを怠る結果である。

 それにひきかえ、霊的なことについての信心深い話は、徳の進歩に大いに役立ち、同じ精神(こころ)の人が神によって結び合わされた時にはことにそうである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・17・3

 

 あなたがここに来たのは仕えるためで、支配するためではない、あなたが召されたのは苦しみ働くためで、なまけてむだ口をたたくためではないと知れ。

 だからここで人々は炉の中の金のように試練(ため)されるのである。

 神のため心から謙遜になろうとしないならば、だれもここにいることはできないのである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・20・1

 

 よけいな雑談や無益な往来(ゆきき)をやめ、めずらしい話やうわさに耳を貸さなければ、有益な黙想にふける時間は充分あるだろう。

 

 最も偉大な聖人たちは、できるだけ人との交際(つきあい)をさけ、隠遁して神に仕えようと心がけた。

 ある人は言っている、「人なかへ出るたびに、自分の人物が下落して帰って来た。」(セネカの書簡第七)と。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・36・1

 

多くの人はおしゃべりである。それゆえほとんど信ずるに足りない。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・53・1

 

自分のために静かなところを選み、独居を楽しみ、何びととも話をしようと思わず、むしろ神に敬虔な祈りをささげるがよい、そうすればあなたは、心の痛悔と、良心の純潔(きよさ)とを保つことができるだろう。

 全世界を無視し、外界(そと)のあらゆる物事よりも、神との交わりを大切にせよ。

 なんとなれば、わたしに仕えながら、同時に過ぎ行くはかない物を楽しみとすることはできないからである。

 あなたは知り合いや親しい人々から離れ、あらゆる一時的な慰めから心を引き離しておかなければならぬ。

 だからこそ使徒聖ペトロも、キリスト信者に「この世にあっては、寄留者や旅びとのようになること」(ペトロ前書2・11)を求めているのである。

 

 

2.道では挨拶しないように

 

ルカ10・4

 

途中でだれにも挨拶をするな。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P16

 

うわさを重くみたり、道では挨拶しないように。

*イエスは、空まわりするような、つまらない話で道草しないように、とおっしゃっています。

 

 

3.議論・論争

 

聖母から司祭へ1975.1.28

 

 論争したり、過度にあれこれとせわしく立ち廻ったり、今日流行の、いろいろな問題に関わり、さまざまの態度をとったりすることは、ただあなたがたのエネルギーを浪費させ、分散させるだけで、それは現今、万人を欺き惑わすことに成功した私の敵の、混乱を目しての全策動に他なりません。

 

 

黙示録講解746ハ

 

 わたしはエジプトにエジプトを混合させよう。かれらが男がその兄弟に、男がその仲間に、都が都に、王国が王国に反抗して戦うためである(イザヤ19・2)。

 

ここの「エジプト」は霊的な人から分離した自然的な人を意味しており、これは真理の光の中には全くいないため、それは絶えず善と悪と真理と誤謬とについて論争しており、この争いが「わたしはエジプトにエジプトを混合させよう、かれらが男がその兄弟に、男がその仲間に反抗して戦うためである」により意味されており、「兄弟と仲間」は真理が発する源泉である善と善から発した真理を意味し、その反対の意味では誤謬が発生する源泉である悪と悪から発した誤謬であり、それで「都は都に反抗し、王国は王国に反抗し」と附言されており、「都」は教義を、「王国」は教義から発した教会を意味しており、それは同じように論争するのである。

 

 

天界の秘義1385(12/15追加)

 

 皮膚の領域に、とくに垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは以前聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。

 

 

4.他生では真理は論議を容認しない

 

天界の秘義2733

 

 他生では真理は論議を容認しない。なぜなら論議は人の歓喜を支持し、かくて人の悪と誤謬とを支持するからである。人は先ず言われた事柄を、それが真のものであるため、考えてみなくてはならないのである。

または人はまた世で極めて充分に知られている原理から考えなくてはならないのである。すなわち、人は他の者から自分にしてもらいたくないことを自分も他の者にしてはならないという原理から考えなくてはならないのである。

 

 

5.知らないことをののしり

 

ペトロの手紙2・2・12

 

この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまうのです。

 

 

ユダの手紙10

 

この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。

 

 

6.歯噛み

 

黙示録講解556ハ

 

歯がみすること(マタイ8・12,13,42,50、22・13,24・51,25・30、ルカ13・28)。

地獄における『歯がみ』は相互に真理に反抗して誤謬について絶えず論じ、争うことであり、かくて誤謬の中にいる者らの絶え間のない議論と論争であり、それに他の者に対する軽蔑、敵意、嘲笑、愚弄、冒瀆が加わり、またこれらの者は互いに他の者らを八つ裂きにしようと企てている。なぜなら各々の者は自己を、学殖を、名声を求める愛からその者自身の誤謬のために戦うからである。こうした議論と争いとは歯がみとしてこれらの地獄の外側には聞こえ、また真理が天界から外へ流れ入るときは、歯がみに変化するのである。(しかしこの主題についてはさらに多くのことが、「天界と地獄」の中に見ることができよう、575番)。

 

7.友情の社会

 

天界の秘義4808

 

他生には友情の社会と呼ばれる非常に多くの社会が存在している。それは身体の生命の中では会話の歓びを他の凡ての歓びよりも愛し、その話す相手を、その相手が善いものであろうと、悪い者であろうと顧慮しないで、愉快でありさえすれば愛し、かくて善の友でもない、真理の友でもない者らを愛した者らから成り立っているのである。

(中略)

このことことからわたくしはもし人物が顧慮されて、善が顧慮されないなら、友情は如何に多くの危害を人間の霊的生活にもたらすかを知ることができたのである。たれでも他の者に実際親しくしてよいのではあるが、それでも善いものにもっと親しまなくてはならないのである。