エレミヤ31・22

 

女が男を保護するであろう。

 

 

 

天界の秘義253

 

教会が『女』また『妻』『花嫁』『処女』『娘』と呼ばれているのは天界的な天使的な自分自身のものによっている。それは黙示録には『女』と呼ばれているのである―

 

陽を着た女がいて、その足の下に月が在り、その頭に十二の星の冠があった。竜は男の子を生んだ女を迫害した(黙示録12・1また4−10)。

 

この記事では『女』により教会が、『陽』により愛が、『月』により信仰が、『星』により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。教会はイザヤ書により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。教会はイザヤ書に『女』『妻』と呼ばれている―

 

あなたを作られた方はあなたの夫である、その名は万軍のエホバ。かれはイスラエルの聖者、あなたの贖い主、全地の神と呼ばれたもう、エホバはあなたを棄てられて心悩む女として、若い折の妻として招かれた(イザヤ54・5、6)。

ここでは『作られた方』は自分自身のものに結合されるため、また『夫』と呼ばれたまい、『心悩む女』と『若い折の妻』は特に古代教会と最古代教会とを意味している。同様にマラキ書にも―

エホバはあなたとあなたの若い折の妻の間に証を立てられた(マラキ2・14)。

それは黙示録には『妻』『花嫁』と呼ばれている―

わたしは聖い都、新しいエルサレムが、夫のために身を飾った花嫁のように備えをして、神のもとを出て天から降ってくるのを見た。来なさい。わたしは小羊の妻である花嫁をあなたに見せましょう(黙示録21・2、9)。

教会は予言者の書全体に『処女』『娘』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義266

 

凡ゆる法律と法令とは天的な、霊的なものを、その真の起原として、そこから発しているため、この結婚の法則も同じくそこから発していることが生まれており―その法則は女は男のように理性から行動するよりは、むしろその女自身のものに属した願望から行動するため、男の深慮に服従しなくてはならないことを求めているのである。

 

 

 

天界の秘義568

 

『娘』はかの人間の意志に属したものを意味し、従って諸々の欲念を意味していることは、前章(4節)に『息子と娘』について語られ、示されたことから明らかであり、そこでは『息子』は真理を『娘』は善を意味しているのである。『娘』はまたは善は意志に属しているが、しかし人間の如何にその理解が応じ、またその意志が応じており、かくて『息子と娘』とが応じている。現在の記事は腐敗した状態にある人間をとり扱っており、その人間は意志を持っていないで、意志の代わりに欲念を持っているに過ぎないのであり、その欲望がかれには意志であると考えられ、またそのように呼ばれているのである。属性として記されていることは、その属性を記されている物の性質に順応しており、ここに娘が属性づけられている人は腐敗した人間であったことは前に示しておいた。『娘』は意志の諸々のものを意味し、善の意志が無いところでは、欲念を意味している理由は、また『息子』は理解の諸々のものを意味し、真理の理解が無いところでは[真理が理解されない所では]幻想を意味している理由は、女性は理解よりも意志または欲念に支配されるように形作られているということである。それが女性の性格の気質全体であり、またそれが女性の性質であるに反し、男性は理知または理性に支配されるように形作られており。それがまた男性の性格の気質であり、またそれが男性の性質である。ここから両者の結婚は人間各々の意志と理解の結婚に似ておりそのして現今善の意志は無くて、単に欲念のみが在るに過ぎないが、しかし依然理知的なものが、または合理的なものが与えられることができる以上、そのことが男の特権と妻の服従についてユダヤ教会に極めて多くの律法が制定された理由となっている。

 

 

 

啓示による黙示録解説53

 

またその女については以下のように言われている―

 

 彼女は陽を着ているのが見られた(黙示録12・1)。

 

これらの記事の『陽』もまた主から発している愛と知恵とを意味し、『女』は新しいエルサレムと呼ばれる教会である。

 

 

 

啓示による黙示録解説434

 

『陽を着て、竜に追われた女』(黙示録12章)により、新しいエルサレムである新しい教会が意味されている。

 

 

 

黙示録講解9(5)

 

第五のアルカナはヨハネは愛の善を表象していることが知られるとき、即ち、主が十字架から母マリアとヨハネに、以下のように言われた言葉により意味されていることが知られるとき明らかになるのである、即ち―

 

 それでイエスは、その母を、またその愛された弟子が側に立っているのを見られ、その母に言われる、女よ、あなたの息子を見なさい、と。それからその弟子に言われる、見なさい、あなたの母を、と。その時間からその弟子は彼女を彼自身の家へと引き取った(ヨハネ19・26、27)。

 

『母』により、また『女』によりここでは教会が意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味され、ここに言われている事柄により、教会は仁慈の善が存在するところに存在することが意味されているのである。(聖言では、『女』により教会が意味されていることは「天界の秘義」252、253、749、770、3160、6014、7337、8994番に見ることが出来、同じようなことが『母』によっても意味されている、289、2691、2717、3703、4257、5581、8897、10490番。『彼女を彼自身の家へ引き取る』ことは、これらのものは共に住まなくてはならないということであることは明白である)。

 

このことから今やいかに大いなるアルカナが聖言に隠れているかが認められることが出来るのであり、そのアルカナは聖言の内なる、または霊的な意義を知っている者たちにのみ明らかにされるのである。