多くの霊魂が生まれ変わる場所

 

1.聖書

2.グリニョン・ド・モンフォール

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

 

1.聖書

 

詩篇87・5

 

シオンについて、人々は言うであろう

この人もかの人もこの都で生まれた、と。

 

 

2.グリニョン・ド・モンフォール

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/32/P44

 

聖霊は言っておられます−「あの人も、この人も、彼女から生まれた」(詩篇87・5)。 ある教父たちの解説によりますと、マリアから最初に生まれた人は、神人イエズス・キリストです。次に生まれた人は、養子縁組によって生まれた純潔な人、神とマリアとの子供です。

もしも人類のかしらイエズス・キリストがマリアから生まれたのなら、このかしらのからだであるすべての救われる人も、当然の帰結として、マリアから生まれねばなりません。

ひとりの同じ母親が、からだのないあたまだけの子供を産みますか。または、あたまのない、からだだけの子供を産みますか。そうだとしたら、まさに世紀のオバケです。これと同じ理くつで、恩寵の世界においても、かしらとそのからだは、ひとりの同じ母親から生まれるのです。だから、もしもイエズス・キリストの神秘体のある成員が、つまり救われる人が、神秘体のかしらをお産みになったマリアいがいの、他の母親から生まれたとしたら、この人はもはや、イエズス・キリストの神秘体の成員でもなければ、したがって、救われる人でもないわけです。そんな人は恩寵界のオバケです。

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/219/P258

 

 どうか、わたしの言うことを、まじめにとってほしい。聖人たちは、マリアにおいてこそ、聖性の型に、はめこまれるのです。肖像を金ヅチとノミでつくるのと、鋳型でつくるのとは、その製作工程において、格段のちがいがあります。第一の方法(金ヅチとノミ)ですと、彫刻士や肖像製作者は、たくさん働かねばなりません。時間も、たくさんかかるのです。しかし、第二の方法(鋳型に流し込む)ですと、手間がすいぶんはぶけますし、時間もわずかですむのです。

 聖アウグスチノは、聖母マリアのことを“神の鋳型”と呼んでいます。「聖母よ、あなたは本当に、神の鋳型と呼ばれる資格がございます。」なるほど聖母マリアは、ご自分という名の鋳型で“神”をつくりだすお方なのです。「わたしヤーヴェは言った、おまたちは“神”だ」(詩篇82・6)。この神的鋳型に流し込まれる者はすぐ、イエズス・キリストのかたちにつくられ、イエス・キリストもまた、この人のかたちにつくられるのです。しかも、わずかの労力、わずかの時間で、そうなるのです。なぜなら、わたしたちは、まことの“神”を形造ったおなじ鋳型に、流し込まれるのだからです。

 

 

 

 

220.わたしが述べる信心いがいの信心業で、イエズス・キリストを自分のうちに、またはほかの人のうつに形造ろうとしている熱心家がいます。この人たちは自分の才能、自分の努力、自分のウデに、満々たる自信をもっている彫刻家にたとえることができます。荒い石塊や、でこぼこの木片に、金ヅチやノミを、万べんなく当てて、それにイエズス・キリストのかたちをきざみ込もうとしています。だが、ときとしては、イエズス・キリストの本来の姿を、そこに再現するのに失敗することもあります。イエズス・キリストの人物をあまりよく知らないか、また仕事のしそこないからか、できあがった作品をみると、どうも失敗作です。

 しかし、わたしが提唱する恩寵の秘けつを体得している人は、ちょうど鋳物師のようなものです。この人たちは、マリアという名の鋳型をもっているのです。この鋳型の中でこそ、イエズス・キリストは、神の特別の働きによって、神でありながら同時に人間として、形造られたのです。かれらは自分の才能や努力には全然信用をおかず、ただただ、マリアという鋳型の慈悲にたよって、イエズス・キリストの生き写しとなるため、自分自身をマリアのうちに投じ、そこで自己分解してしまうのです。

 

 

 

221.ああ、これはなんと美しい、なんとすばらしいたとえなのでしょう。だれか、このたとえの本当の意味を理解している者はいないものか。

 愛する兄弟よ。愛する読者よ。あなたこそ、その人であってほしい。だが、マリアという鋳型に投じられる者は、溶解した液体だけだということを忘れてはなりません。すなわち、マリアのうちにあって新しいアダム(イエズス・キリスト)となるために、あなたのうちにある古いアダムを破壊し、溶解して液化せねばならないのです。

 

 

愛心館/山下房三郎訳/グレニョンド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心

 

260.Bマリアの清らかさです。清らかさの点では、この地上では、前にも後にも、マリアにくらべられる者は絶対に一人もありません。その他多くの徳を、模倣せねばなりません。

 くり返し申し上げますが、マリアが、神に偉大な、唯一の“鋳型”だということを忘れないでほしい。マリアは、神の生ける姿を、わずかの労力、わずかの時間で造り出す鋳型なのです。

 この鋳型を見いだして、そこに自分自身を流し込む人は、すぐにイエズスに変えられるのです―この鋳型が、その本来の姿を忠実に再現するイエズス・キリストに。(本書219〜221)。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P306

 

ここで霊魂が、イエズス・キリストの姿に形造られ、またイエズス・キリストも、この霊魂の姿に形造られるためです。なぜなら、教父たちが言っているように、マリアのご胎こそ、「神の密室」であって、ここでこそ、イエズス・キリストをはじめとして、すべての選ばれた者が形造られたからです。「だれもかれもがここで生まれました」(詩篇87・5)。

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P312

 

 次に、御子にこう申し上げます。―イエズスさま。わたしは自分の無駄な、悪いことばのため、またあなたへの不忠実な奉仕のため、あなたをお受けする資格はございません。しかしそれでも、わたしをあわれんでください。これからあなたを、あなたご自身のお母さまであり、同時にわたしの母でもある「マリアの家」に、ご案内いたしたいのです。あなたが、御母マリアの家に住んでくださるまでは、絶対にあなたを放しません。「わたしは、あなたを引き留めて、行かせません。わが母の家にあなたを連れて行き、わたしを産んだ者のへやに、あなたがはいるまでは」(雅歌3・4)。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館第4巻上P92

 

「彼女を、平和のある場所に、汚れのないのそばで、生命であるキリストを世に与えるべく得た生命ほどのあの方のそばで、多くの霊魂が生まれ変わる場所に導いたのは、あなたの苦しみです。あなたの妹はわたしのところにいます。 ああ! 生ける、マリアの甘美な一条の光が射した後、その彼女の御子の、口に出さない活動的な愛ゆえの愛の懐に呼ばれ、あなたの妹が平和の、あの平和の港に帆をたたんだのは彼女が初めてではありません! あなたの妹はナザレにいます。」

 

「でも、妹はあなたお母様も、あなたの家も知らないのに、どうやって行ったのでしょう?・・・一人で・・・しかも真夜中に・・・あのまま・・・どんな手段もないのに・・・あの服を着て・・・あれほどの道程を・・・どうやって?」。

 

「どうやって? 疲れたツバメがふるさとの巣に戻るように、海を越え山を越え、嵐と霧と厳しい風の中を。ツバメが越冬地に飛んで行くように・・・自分たちを導く本能によって、自分たちを招く暖かさによって、自分たちを呼ぶ太陽によって。彼女もまた、自分を呼ぶ光のもとへ駆けつけました・・・万人を招くのもとへと。そして、わたしたちは暁に幸せに戻ってくる彼女を見るでしょう・・・永遠に暗闇から脱け出して、もう二度と孤児(みなしご)ではないように、ひとりのわたしの傍らに。あなたはそれを信じることができますか?」

 

「はい、わがよ」。

 

 

4.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P229

‘89・8・14 被昇天の祝日の前日

 

私は主です、我が子よ、この追放の地を通り過ぎようとしてほどなくに、心に愛を抱く、あなたを見い出した。 私はしっかりとあなたを抱きしめて 真っ直ぐの道に連れ戻した。 そして母の家の、私を身ごもった部屋に、連れて行くまでは、あなたを放さないつもりだ ♡ 明日は一日を捧げ 周囲に芳しい香りを放ちなさい。 我が霊があなたの上に留まっている ♡ 勇気を! あなたから離れない、祝福を降り注いでいる 我が子よ ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P252

‘89・9・14 十字架崇敬の祝日

 

ヴァッスーラ、もっと祈りなさい、決して愛を疑わないでほしい、我が掟を常に重んじるように。 御母に場所をつくってもらいたい、腕の中にお迎えしなさい。 御母の家で私は待っている、私を受胎した御母の部屋で ♡