天界の秘義1691

 

 『山』は自己への愛と世への愛とを意味していることは『山』の意義から認めることができよう、そのことについては後に間もなくとり扱うことにしよう。悪と誤謬とはことごとく自己への愛と世への愛とから生まれている、それらにはそれ以上の起原はない、なぜなら自己への愛と世への愛とは天的な愛と霊的な愛に対立するものであり、それらは対立するものであるため、神の国の天的なものと霊的なものとを破壊しようと絶えず努力しているものであるからである。自己への愛と世への愛から凡ゆる憎悪が発生しており、憎悪から復しゅうと残酷とがことごとく発し、またそれらから凡ゆる詐欺が発生しており、約言すると、地獄のことごとくが発生している。

 

[2]聖言には『山』により自己への愛と世への愛とが意味されていることは以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

  人間の高慢な眼は卑しくされ、人間の高ぶりも低くされるであろう。万軍のエホバの日は高慢であり、高ぶっているもの凡ての上に臨み、そびえている岡の凡てに、そびえ立っている塔の上に臨む(2・11、12、14、15)。

 

 『高い山』は明らかに自己への愛を意味しており、『そびえている岡』は世への愛を意味している。

 

 

[3]さらに―

 

  谷間はことごとく高くされ、山と岡とはことごとく低くされるであろう(40・4)。

 

 ここにもまた『山と岡』とは明らかに自己への愛と世への愛とを意味している。さらに―

 

  わたしは山々と岡とを荒れすたらせ、その青草をほせ上がらすであろう(42・15)。

 

 ここにもまた『山』は自己への愛を、『岡』は世への愛を意味している。エゼキエル書には―

 

  山は投げ下ろされ、険しい所は倒れ、壁はことごとく地に倒れるであろう(38・20)。