黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた

マタイ2・11

 

 

1.献げ物

2.香

3.乳香

4.東の地

5.東の息子たち

 

 

1.献げ物

 

天界の秘義9293

 

「わたしの顔を素手で見てはならない。」(出エジプト23・15)

 

これは慈悲により善を受け入れることとまた感謝をささげることを意味していることは以下から明白である、すなわち『エホバの顔』の意義は善、慈悲、平安であり(222、223、5585、7599番を参照)『素手で見てはならないこと』の意義は、または捧げ物もなしに見てはならないことの意義は、善を受けたためにそのことを立証し、感謝することである。なぜならエホバに捧げられた捧げ物は人間により主に捧げられて、主により受け入れられたものを意味したからである。捧げ物は人間の凡ゆる行為に似ており、それはそれ自身ではヂェスチャ以外の何ものでもなく、意志から離れて観察されるなら、色々な方法で形作られ、いわばつぎ合わされた運動にすぎず、機械の運動に似ていないわけではなく、それで生命を欠いたものである。しかし人間の行為はその人間の意志とともに観察されるときは、それはそうした運動ではなくて、眼前に示された意志の形である、なぜなら好意は意志に属した事柄を立証するもの以外の何ものでもなく、またその霊魂または生命を意志から得ているからである。それで運動について言われることと同じことが行為についても言われることができるのである、すなわち、丁度運動には努力がないなら生きたものは何一つないように、行為にも意志がないなら生きたものは何一つないのである。それがそうであることもまた人間に知られているのである。なぜなら理知的な者は人間の行為には注意しないで、その行為が発生してくる源泉であり、手段であり、目的でもあるその意志にのみ注意するからである。否、賢明な者はその行為をほとんど見はしないで、その行為の中に在る意志の性質と量のみを見るのである。捧げ物の場合も同じであって、主が眺められるものはその捧げ物の中に在る意志である。従ってエホバ―すなわち、主―に捧げられた捧げ物により意志に、または心に属した事柄が意味されているのである。人間の意志は聖言ではその『心[心情]』と呼ばれているものである。この凡てからまた人は各々他生でその者の行為または業に従って審判を受けることをいかように理解しなくてはならないかが明白である(マタイ16・27)、すなわち、それは心情のものであり、心情から生命のものとなっているものに応じて行われるのである。

 

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さらに―

東から賢人たちが来て、かれらはお生まれになったばかりの主に、黄金、乳香、没薬の捧げ物を捧げた(マタイ2・1,11)。

 

『黄金、乳香、没薬』により主における愛の善と信仰の善との凡ゆるものが意味されており、『黄金』により愛の善の凡ゆるものが、『乳香』により信仰の善の凡ゆるものが、『没薬』により、外なる物におけるその両方のものの凡ゆるものが意味されているのである。東から来たその賢人たちがこうした物を捧げた理由は、東の或る者たちの間に古代の人たちの知識と知恵とが古代から残っていたためであり、それは世と地上に在るものの中に天界の物と神的なものとを理解し、認めることから成っていたのである。なぜなら凡ゆる物は相応しており、表象しているものであり、従って何らかの意義をもっていることが古代人には知られていたからであり、そのことはまた異邦人の最も古代の書物と記念碑からも明白である。従ってかれらは黄金、乳香、没薬、は神に捧げられなくてはならない善を意味していることを知っていたのである。かれらはまた古代教会のものであったその予言的な文書から(2686番)、主が世に来られて、そのとき星が一つかれらに現れることを知っていたのであり、その星についてはさらにバラームが―かれもまた東の子らの一人であったが―予言したのである(民数記24・17、3762番)、なぜなら『星』は主から発した内なる善と真理とにかかわる知識を意味しているからである(2495、2849,4697番)。

 

 

2.香

 

天界の秘義10177[]

 

香の祭壇は愛と仁慈から発した礼拝の凡ゆるものが聞かれ、受け入れられることを表象したことは、煙により、従って香をたくことにより高く上げられたものが意味され、その煙により快いものが意味され、従って主から聞かれ、受け入れられるものが意味され、愛と仁慈から発したもののみが快いものであり、主から受け入れられるためであり、そうした理由からその祭壇は一面に金でおおわれて、『金の祭壇』と呼ばれたのであるが、それは『金』は愛の、また仁慈の善を意味しているためである(9874,9881番に引用された所を参照されたい)。

 

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愛と仁慈から発したもののみが快いものであり、それで主により聞かれ、受け入れられることは、愛が人間全体を作っているためである、なぜなら人間各々はその愛があるままのものであるからである。ここから諸天界の天使は愛と仁慈との形であり、かれらがもっているその形そのものはそこから人間の形となっていることは、かれらの中におられて、かれらを形作っておられる主は、その神的な人間的なものの方面では、神的愛そのものであられるためである。ここからかれらの愛の方面の性質はその顔、その言葉、その動作から明らかに認められ、とくにかれらから遠くにまでも流れ出ているその情愛のスフィアから認められる。

 

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主に対する愛と隣人に対する仁慈とは主から発しているため、また愛は霊的に連結するものであるため、それで何であれこの源泉から発出しているものは主から聞かれ、また受け入れられている。こうした源泉から発していない聖さと敬虔とは実際聞かれはするが、しかし快く受け入れられはしないのである、なぜならそれらは内なるものを欠いた外なるものにすぎないため、偽善的な聖さと敬虔であって、内なるものを欠いた聖い外なるものは天界の最初の入口よりは先に浸透はしないで、そこで消滅してしまうからである。それに反して聖い内なるものから発した聖い外なるものは、その内なるものの性質に従って、天界へさえも、引いては主のみもとへも浸透するのである。なぜなら内なるもののない聖い外なるものは単に口と動作から発しているに反し、内なるものから発した聖い外なるものは同時に心から発しているからである。(後の、また前の聖さについては、8252−8257番に述べ、また示したことを参照されたい)。

 

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『香』により礼拝とその高揚とが意味され、かくて主により聞かれ、受け入れられることが意味されたため、それで『かれらは乳香とともに香の箱をとって、それを[乳香を]エホバの前にたかなくてはならない、かくすることによりエホバはたれを選ばれるかを知り、かくてたれを聞かれるかを知ることができよう』とモーセにより命じられたのであり(民数記16・1以下の節)民がつぶやいたとき、『その疫病が始まったさい、アロンは香をもて会衆の最中に入り、かくしてそれをとどめた』のである(民数記16・44−49)。

 

[10]

 『香をたくこと』が上へ挙げられて、神的なものにより受け入れられる事柄を意味したため、それでそれはまた異教徒によってもその宗教の儀式に用いられた。乳香、香炉、香箱がローマ人の間に、また他の諸国民の間にも用いられたことは歴史から知られている。こうした種類の宗教儀式は古代教会から伝わったものであり、古代教会はアジアの多くの地域に、例えばシリヤ、アラビヤ、バビロン、エジプト、カナンにひろがっていたのである。この教会は表象的な教会であり、かくて天的なものと霊的なものである内なるものを表象する外なるものから成っており、この教会から多くの宗教儀式が周囲の諸国民のもとへ伝えられたが、その中に香をたくことも含まれており、それらのものからギリシャを経て、イタリ―へ伝えられたが、不断の火も同じく伝えられ、それを守るために貞潔な処女が任命され、これをかれらはベスタルズ[ベスタ女神の処女たち]と呼んだのである。

 

 

3.乳香

 

天界の秘義10177

 

[11]

古代教会における、また引いてはイスラエル教会における香の捧げ物は、スタクテ、オニカ、ガルバヌム、乳香といった芳香性の物からととのえられたが、それは匂いは認識を意味し、芳しい匂いは快い認識を意味したという理由によっていたのである(925、1514、1517−1519、3577、4624−4634、4748、10054番)。

 

しかし乳香はとくに信仰の真理を意味しており、『乳香』が聖言に言われているときは、それに『油』、『パン』、『素祭』、または金が結びつけられており、この凡てにより愛の善が意味されているのである、例えばイザヤ書には―

 

シェバからかれらは凡て来るであろう、かれらは金と乳香とをたずさえて来て、エホバの賛美を告げるであろう(60・6)。

 

東から来た者たちも同様であり、かれらについてはマタイ伝に『東から賢い人たちが来て、そのとき生まれたもうたばかりの主を探し求め、その宝を開いて、金、乳香、没薬を捧げた』と記されているのである(2・1、2、11)。(東から来て、『東の子たち』と呼ばれた者たちは、聖言では善と真理とを知っていた者たちを意味していることについては、3249、3762番を、『シェバ』も同じくそのことを意味していることについては、1171、3240番を、『金』は愛の善を意味していることについては、9874、9881番に引用したところを参照されたい)

 

 

4.東の地

 

天界の秘義3249

 

「東方の東の地へ」(創世記25・6)。

 

これは、信仰の善へ、を意味していることは、以下の記事にとり扱われる『東』と『東の地』の意義から明白である。『東の地』により意味されているところの信仰の善は聖言に隣人に対する仁慈と呼ばれているもの以外のものではなく、また隣人に対する仁慈は主の戒めに従った生活以外の何ものでもない。これが『東の地』により意味されていることは前に見ることができよう(1250番)、それで信仰の善にかかわる知識の中にいた者たちは『東の息子たち[東の子ら]』と呼ばれたのである。東の息子たちの地はアラムまたはシリヤであった。(アラムまたはシリヤは善にかかわる知識を表彰していることは前の1232、1234番に見ることができ、アラム ナハライムまたは川々のシリアは真理にかかる知識を表象している、3051番)。

 

 

5.東の息子たち

 

天界の秘義3249

 

 『シリア人』または『東の息子たち』により善と真理とにかかわる知識の中にいた者たちが意味されたため、かれらはとくに『賢明な者』と呼ばれたのである、例えば列王記の上巻には、ソロモンについて以下のように言われているのである―

 

ソロモンの知恵は東の息子たちの凡ての者の知恵にもはるかにまさっていた(4・30)

 

またマタイ伝にはイエスが生まれたもうた時そのもとに来た者たちについて以下のように言われているのである―

 

賢人たちが東からエルサレムに来て、言った、ユダヤ人の王として生まれたもうた方は何処におられますか。わたしたちは東方にその方の星を見、その方を拝するために来ました(2・1,2)

 

なぜならシリヤには古代教会の最後の残りの者がいたのであり、それでその地には善と真理とにかかわる知識が依然残っていたからであるが、このことはバラムからもまた認めることができるのである、なぜならかれはエホバを拝したのみでなく、主について予言もし、主を『ヤコブから出た星、イスラエルから出た笏』とも呼んだからである(民数記24・17)。バラムはシリアにおける東の息子たちの一人であったことは明らかである、なぜなら彼は以下の宣言を発している時、このことを自分自身について言っているからである―

 

シリアからバラクはわたしを、モアブの王は、東の山から連れてきた(民数記33・7)。

 

東の息子たちが住んだ所はアラムまたはシリアであったことは、ヤコブがシリヤに行ったとき、かれは『東の息子たちの地へ』行ったと言われているという事実から明白である(創世記29・1)。

 

 

天界の秘義3762〔3〕

 

『東の息子たちの地』により愛の諸真理が意味され、かくて善を志向する真理の諸知識が意味されていることは、『息子』の意義が真理であり(489,491,533,1147,2623番を参照)、『東』の意義が愛であることから認めることが認めることができよう(101,1250、3249番)。かれらの『地』はかれらのいる土地である。

 

『東の息子たち』は、真理と善の諸知識の中におり、従って愛の諸真理の中にいる者たちであることは聖言の他の記事からもまた認めることができよう。例えば列王記上には―

 

ソロモンの知恵は東の凡ての知恵にも、エジプト人の知恵にもまさって増大した(4・30)。

 

ここでは『東の息子たちの知恵』により真理と善との内的な諸知識が意味され、かくてその中にいる者たちが意味されているが、しかし『エジプト人の知恵』により、それよりは低い度に在るところの善と真理の記憶知が意味されているのである(『エジプト人』により記憶知が全般的に意味されていることは、1164、1165、1462番に見ることができよう)。

 

 

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イエスのみもとへその生まれたもうたさい来たその賢人たちはマギ[博士]と呼ばれているが、しかし当時賢人たちはそのように呼ばれたのであり、そのことは多くの記事から明白である。例えば、創世記41・8、出エジプト7・11、ダニエル記2・27、4・6,7、列王記上4・30、また予言書全体。