覚える

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P238/注(20)

 

イエス自身がこう言う。「間違った解釈を避けさせるために説明する。祈るとは神であれ、隣人であれ、それを思い出すことである。そして、この思い出すこと自体が、それを愛すことである。私は、私を取り囲んでいたすべての憎しみに、愛と慰めとを望んでいた。いまでも私は人間が祈ることを忘れないように望む。これはこの世が救われるために私を愛するようにである」これを見れば、イエズスは友だちの愛と慰めとを望み、ゲッセマニの園で天使からの慰めを喜んだのと同じように評価したと分かる。

 

 

天界の秘義840

 

 「神は憶えられた。」これは試練の終りと革新の始めとを意味することは前後の記事から明らかである。『神は憶えられた』は、特に、神が慈悲深くあられることを意味している、なぜなら神が憶えられることは慈悲であるからであり、そしてこれが特に試練の後に述べられているのは、新しい光がその時輝き出るためである。試練が続いている限り、人間は主は在さないと想像するが、それはかれが魔鬼に激しく悩まされてしばしば絶望し、神が在すとはほとんど信じることはできないからである。しかし主はそのときかれが全く信じることもできない程に親しく臨在されているのである。しかし試練が止むと、その人間は慰安を受け、その時始めて主が臨在されていることを信じるのである。それ故現在わたしたちの前におかれた記事の中の、外観に応じて表現されている『神は憶えられた』という言葉は試練の終りと革新の始めとを意味している。『神』が憶えられたと言われて、『エホバ』とは言われていないのは、未だ人間は再生に先立つ状態にいたためであるが、しかしかれが再生すると、その時(本章の終りの20、21節のように)『エホバ』と言われるのである。その理由は信仰は未だ仁慈に連結していないということである、なぜなら人間は仁慈から行動するとき始めて再生したと言われるからである。仁慈の中にエホバはおられるが、仁慈に連結していない信仰の中にはそれ程おられはしないのである。仁慈こそ他生における人間の存在と生命そのものである、そしてエホバは存在と生命そのものであられるため、人間が存在し、生きていない中は、『エホバ』がかれとともにおられるとは言われないで、『神』が共におられると言われるのである。

 

 

天界の秘義1049

 

 「そしてわたしはわたしとあなたとの間にある契約を覚えよう」。

 

これが再生した者と再生することのできる者にとくに注がれる主の慈悲を意味していることもまた生まれてくる、なぜなら主にあっては『記憶する[覚える]』ことは慈悲を持つことであるから。記憶する[憶える]ことは主について述べることはできない。なぜなら永遠から主は凡ゆる物を全般的にもまた個別的にも知られているからである、しかし慈悲を持つことは主について述べられるのである、なぜなら主はそのようなものが人間の性格であることを知られているからである、すなわち、前に言ったように、人間自身のものは奈落的なものであり、それが彼の地獄そのものであることを知られているからである。なぜなら人間はその意志の人間自身のものにより、地獄と交流し[連なり]、この人間自身のものは地獄からは、またその人間のものそのものからは、そのもの自身を地獄にむかって投げこむほどには甚だしくまた強く何ごとも欲してはおらず、またそれはそのことにも満足しないで、宇宙の凡ゆるものを投げこもうとさえ欲しているからである。人間は人間自身ではこのような悪魔であって、主はこのことを知られているからには、主が契約を憶えられることは人間に慈悲を抱かれて神的な手段によりかれを再生させ、かれがそのことを可能にするようなものである限り、かれを強力な力により天界へ引かれるということ以外には何ごとも意味していないことが生まれてくる。