王
申命記17・14−20
あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、
必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。 王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。
王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。 彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、
それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。 そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中で王位を長く保つことができる。
天界の秘義2015
「王たちがあなたから出てくるでしょう。」これは真理はことごとく主から発していることを意味していることは、『王』の意義は、歴史的な聖言においても、予言的な聖言においても、真理であることから明白である(このことについては前の1672番に述べたが、いまだ充分に示しはしなかったのである。)『国民』の意義が善であり、『王』の意義が真理であることから、わたしたちは聖言の内意の性質を、またそれがいかに文字の意義から隔たっているかを認めることができよう。
天界の秘義2015[3]
『王』が真理を意味していることは、以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―
他国者の息子らはあなたの壁をきづき、その王たちはあなたに仕えるであろう、あなたは諸々の国民の乳を吸い、王たちの胸を吸うであろう(60・10、16)。
『諸々の国民の乳を吸う』ことと『王たちの胸を吸う』こととは何であるかは文字からは決して明らかではないが、内意からは明らかであり、内意ではそれはいくたの善を与えられ、いくたの真理を教えられることを意味しているのである。
天界の秘義2015[4]
エホバはその怒りの憤りの中に王と祭司とをさげすまれた、シオンの門は地の中に沈んでしまった、かれはそのかんぬきをこぼたれ、砕かれた、その王とその君たちとは国民の間にいる、律法は存在しない(哀歌2・6、9)。
ここの『王』は信仰の真理を、『祭司』は仁慈の善を、『シオン』は、破壊されつつあり、またそのかんぬきを砕かれてしまった教会を意味しており、そこから『王とその君たちとは幾多の国民の間にいる』のであり、即ち、真理と真理に属したものとは『律法』が存在しなくなるほどに、即ち、信仰の教義が何一つ存在しなくなるほどにも放逐されてしまうのである。
天界の秘義2015[6]
さらに同じ予言者の書の中に―
かれは多くの国民に(水を)ふりかけられるであろう、かれのまえに王たちはその口を閉じるであろう―彼らは彼らに話されなかったことを見、彼らが聞かなかったことを悟ったからである(イザヤ52・15)。
ここには主の来られることが語られており、『国民』は善に感動する者を、『王』は真理に感動する者を意味している。ダビデの書には―
ああ王たちよ、さあ、理知のあるものとなりなさい。地の審き人たちよ、教えをうけなさい。恐れをもってエホバに仕え、おののきながら、喜びおどりなさい。御子に口づけしなさい、でないとかれは怒られ、あなたらは道で滅びるでしょう(詩篇2・10−12)。
『王たち』は真理の中にいる者たちを意味し、その者たちもまたその真理から『王の息子たち』と時折呼ばれており、ここの『御子[息子]』は主を意味していて、主は真理それ自身であられて、真理はことごとく主から発しているため、ここに『御子[息子]』と呼ばれたもうている。
天界の秘義2015[7]
ヨハネの書には―
彼らは新しい歌を歌うであろう、尊いかな、その書を取って、その封印を開かれる方よ。あなたは私たちを私たちの神に向って王とも祭司ともされて、私たちに地を治めさせ給う(黙示録5・9、10)。
ここに真理の中にいる者たちは『王』と呼ばれている。主もまたこうした人物を『王国の息子』と呼ばれている、マタイ伝には―
良い種をまく者は人の子である。畠は世である、種は王国の息子たちである、毒麦は悪い者の息子らである(13・37、38)。
天界の秘義2015[10]
『王』は真理を意味しているため、主が王ともまた祭司とも呼ばれ給うている時、その内意に意味されていることを認めることが出来よう、また主の中に王により表象されたものは何であったか、祭司により表象されるものは何であったかも認めることが出来よう。王は主の神的な真理を、祭司は主の神的な善を表象したのである。主が王として宇宙を支配されている手段である秩序の法則はことごとく真理であるが、しかし主が祭司として宇宙を支配されている手段であり、また真理それ自身を支配されている手段である法則はことごとく善である、なぜなら真理のみから統治[支配]することは凡ゆる者を罪に定めて地獄に落とすが、善が統治[支配]することは凡ゆる者を地獄から引き上げて、天界の中へ上げるからである(1728番参照)。主の場合にはこの二つのものは連結しているため、それらは古代祭司職に連結した王者性により表象されたのである、例えばメルキゼデクの場合がそれであり―彼はサレムの王であると同時にいとも高い方、神の祭司であったのである(創世記14・18)―後にはユダヤ人の場合がそれであり、彼らの間に表象的な教会が教会自身の形をもって審き人[士師]と祭司により、後には王により設立されたのである。
天界の秘義2015[11]
しかし王は真理を表象し、真理は前に言ったように、それが罪に定めるという理由から、命令してはならないため、王を持とうとする欲望は叱責を招くほどに(神には)御旨に添わなかったのであり、真理が真理自身において観察された際のその真理の性質は王の権利により記されたものであって(サムエル記前8・11−18)、それよりも以前の時代にはモーセにより以下のように命じられたのである、即ち、彼らは善から発している純粋な真理を選ぶべきであって、似而非なる真理を選ぶべきではない、その純粋な真理を理論と記憶知により冒涜してはならないと命じられたのである(申命記17・14−18)。
天界の秘義5323[2]
古の王たちは戦車に乗ったときは、王は主の神的真理の方面を表象し、『戦車』は聖言を意味したため、ひざがまげられたのである。この崇拝の儀式はその表象していることが知られたとき初まったのであり、その時王たちはその崇拝を自分自身に帰しはしないで、自分自身に接合はしてはいるが、自分自身から離れている王者性に帰したのである。かれらにあってはその王者性は律法であり、それは神的真理から発しているため、その王の中に―その王がその監理者であるかぎり―崇拝されなくてはならなかったのである。かくて王は律法の監理を越えて、自分自身には王者性を何ら帰さなかったのであり、またかれがその監理から遠ざかるに比例して、王者性からも遠ざかったのであり、律法以外の根底に立った崇拝は、すなわち、律法を崇拝する以外の崇拝はそれ自身では偶像崇拝であることを知っていたのである。王者性とは神的真理であることは前に見ることができよう(1672、1728、2015、2069、3009、3670、4581、4966、5044、5068番)、従って王者性は律法であり、律法はそれ自身においては王国の真理であり、それに従ってその住民たちは生きなくてはならないのである。以上述べたところから『アブレヒ』または『ひざをまげよ』は崇拝を意味していることは今や明らかである。
天界の秘義6125[6]
これに似た記憶知がまたイスラエルを治める王のためにモーセの書に定められたことにより意味されているのである―
もしかれらが王を求めるなら、兄弟たちの中から王をかれらを治める者としておかなくてはならない、ただかれはかれ自らのために馬をふやしてはならない、また馬をふやすためにエジプトへ民を連れ帰ってもならない(申命記17・15、16)。
王は主の神的な真理[神の真理]を表象し(1672、1728、2015、2069、3009、3670、4575、4581、4789、4966、5044、5068番)、かくて主の理知を表象したのである、なぜなら理知は、それが純粋なものであるときは、神的真理から発しているからである。理知は神的真理である聖言によって得られて、人間自身の知的なものから発した記憶知によって得られてはならないことが、王は『馬をふやしてはならない、また馬をふやすためにエジプトにその民を連れ帰ってはならない』という命令により意味されているのである。
新しいエルサレムとその天界の教義319
祭司は神の律法と礼拝に関係したものを司るように定められているように、王と司政者とは国家の法律と審判とに関係したものを司るように定められている。
新しいエルサレムとその天界の教義320
王一人では凡ての事を司ることは出来ないため、その下には治める者がおり、その各々に治める州が与えられており、それは王一人では治めることは出来ないし、また可能でもない。この治める者たちが合して王政を構成しているが、王自身はその頭首である。
新しいエルサレムとその天界の教義321
王権それ自身は人間の中にはなくて、人間に接合されている。王権は自分自身の人柄の中にあると信じている王と統治の高貴さは自分自身の人柄の中にあると信じている治める者は賢明ではない。
新しいエルサレムとその天界の教義322
王者性〔王権〕(ロイアリティ)は国の法律に従って治め、公正からそれに従って審判くことにある。法律を自分自身の上に在るものとして認める王は賢明であるが、自分自身を法律の上に在るものとして認めている王は王者性を法律の中に置いており、法律が彼を支配している、何故なら彼は法律は公正であって、公正である公正はすべて神的なものであることを知っているから。しかし自分自身を法律の上にあるものとして認める者は自分自身の中に王者性〔王権〕を置き、自分自身が法律であると信じるか、または公正である法律が自分自身から発していると信じるかしており、かくて彼は神的なものを自分自身に僭取するが、しかし彼はその下にいなくてはならない。
新しいエルサレムとその天界の教義323
公正である法律は法律に通じ、賢明であり、神を恐れる人物により国の中に施行されねばならない、かくて王とその従臣とはそれに従って生きなくてはならない。その施行されている法律に従って生き、そのことでその従臣に模範を示す王は真に王である。
新しいエルサレムとその天界の教義324
絶対的な権力を持ち、従臣は奴隷であり、自分はその財産と生命とに権利を持っていると信じている王は、もしそのことを行うならば、王ではなくて、圧制者(タイラント)である。
新エルサレムの教義325
国の法律に従って王に服従しなくてはならない、またいかような方法によっても、行為によっても、言葉によっても王を害してはならない、なぜならそのことに公共の安寧はかかっているからである。