柔和
シラ書3・17−18
子よ、何事をなすにも柔和であれ。
そうすれば、施しをする人にもまして愛される。
偉くなればなるほど、自らへりくだれ。
そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。
シラ書1・27
主を畏れることは、知恵であり、教訓である。
主は誠実と柔和を喜ばれる。
シラ書4・8
貧しい人の訴えに耳を傾け、
穏やかにそして柔和に、答えるがよい。
マタイ5・5
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
マタイ11・29
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
マタイ21・5
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
ヤコブ3・13
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
ペトロの手紙1・3・1−6
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
天界の秘義3318[4]
これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である、その後かれは他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。
新しいエルサレムの教義199
試練により凡ゆる悪と誤謬の源泉である自己と世への愛が破壊される(5356番)。かくして人間は謙遜になる(8966、8967番。
天界の秘義7068
「彼らは身を屈め、頭を垂れた」。これは卑下を意味していることは、『身を屈め、頭を垂れること』の意義から明白であり、それは卑下の結果起るものであるが(2153、6266)、しかし『身を屈めること』は外的な卑下を意味して、真理の中にいる者たちの卑下であり、 『頭を垂れること』は内的な卑下を意味して、善の中にいる者たちの卑下であることは前に見ることが出来よう(5682番)。それがそうであることは真理の中にいる者たちと善の中にりう者たちとから明らかである、即ち、真理の中にいる者たちは謂わば冷厳であって、頑な者であるかのように直立しており、神の前に自らを卑うしなければならぬ時にも、ただ身体を少しく曲げるのみであるが、しかし善の中にいる者たちは謂わば柔和であって、神の前に自らを卑うする時は、地に平伏するのである。なぜなら真理は善が無い時は冷厳であり、それが善をその目的として仰ぐ時、この冷厳さは柔かくなり始めるが、しかし善はそれ自身において柔和であり、(そこへ)徐々に導き入れられつつある真理も、そこで善になるに連れて、また柔和になるからである。その理由は真理は善によらなくては天界の形に秩序づけられることは出来ないということであり、そこから真理はそれ自身においては頑ななものである。なぜなら天界の形は極めて自由で何ら抵抗はしないのであり、そこから、真理が共になって正当に秩序づけられた善もそのようなものとなり、前に言ったように柔和なものとなるのである。
天界の秘義8966
試練は、信仰の諸真理を確認し、またそれらを植えつけ、意志の中へ徐々に入りこませ、かくてそれが仁慈の善となることに貢献している。なぜなら、前に言ったように、人間は悪と誤謬とに対抗して信仰の諸真理から戦い、その心はそのとき真理の中にいるため、征服するときは、その諸真理を自分自身の中に確認して、それを植えつけ、また自分をおそった悪と誤謬とを敵と見なし、それを自分自身から斥けるからである。
さらに試練を通して自己と世に対する愛から発している欲念は征服され、その人間はけんそんになるのである。かくてかれは主から天界の生命を受けるに適わしいものとされるが、その生命は新しい生命であり、再生した人間にぞくしているものである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・3
[1]まずあなたの心を平和に保て。そうすればあなたは他人(ひと)をも平和にすることができよう。
柔和な人は大学者よりもためになる。
癇癪持ちはあらゆる善を悪に変え、また悪を信じやすい。
善良でおとなしい人はすべてのことを善に変える。
心の平和な人はだれをも悪く思わない。しかし不満家で気のイライラしている人は、いろいろな疑いに悩まされ、自分でも心が安まらないし、他人の心も安らかにしない。
そいう人はしばしば言ってならないことを言い、自分のためになることをしない。
またそういう人は他人のなすべきことばかり気に病んで、自分のなすべきことはお留守にする。
だからあなたはまず自分のことを熱心にせよ。そうして始めて隣人のためにあなたの熱心をおよぼしても、良いわけが立つというものである。
[2]自分を責めて、兄弟を弁護してやるのこそ正しい道であろう。
他人(ひと)に許してもらいたいならば、他人をも許すがよい。
見よ、あなたはほんとうの愛と謙遜とから、どんなに遠く離れていることだろう!なんとなればこの徳は、自分以外にはだれにも腹を立てたり不機嫌になったりすることがないはずだからである。
善良でおとなしい人といっしょにくらすのは、少しもむずかしいことではない。それはだれでも自然に楽しく思うところで、人はみな平和を喜び、自分と同じ考えの者をいっそう愛するからである。
しかし人触りが悪いなみはずれた者や、だらしのない者や、自分に逆らう者などと、平和にくらすのはこれこそ大きな恩恵であって、称賛すべき雄々しいことである。