霊たちと天使たちとの認識について

 

 

 

 

 

天界の秘義1048

 

「虹が雲の中に見られるであろう」。

 

これは、それでも人間は再生することができるようなものであるとき、を意味していることは『雲の中の虹』の意義から明白であって、それは前に言ったように、再生のしるしであり、または再生を指示するものである。『雲の中の虹』についてはその実相はさらに以下のようである。人間の性質は、または身体の死後の霊魂の性質は直ちに知られている、すなわちそれは主により永遠から知られており、またそれが永遠に如何ようなものになるかも知られている。かれの性質は天使たちによりかれが近づくその瞬間に知られている。或るスフィア[霊気]がかれの性質からまたはかれの中の凡ゆる物から―いわば―発散しており、このスフィアは、驚嘆すべきことには、そこからその人間が如何ような信仰にまた如何ような仁慈にいるかを認められることができるといったものである。主がよしとされるとき、虹として見られるのはこのスフィアである。(このスフィアについては、主の神的慈悲の下に今後述べよう)。ここから雲の中に見られるときの虹によりここに意味されていることが明白である。すなわち、人間が再生できるとき、が意味されているのである。

 

 

 

霊たちと天使たちとの認識について、また他生におけるスフィア[霊気]について。

 

天界の秘義1383

 

 他生における驚嘆すべきものの中には認識が在るが、それには二種類のものがある。一つの種類は天使的な認識であって、それは真で善いものを、主から発しているものを、またその人物自身から発しているものを認識することに在り、また自分の思考と言葉と行動の源泉と性質とを、それらのものが自分自身から発しているとき、認識することに在るのである。他の一つの種類は凡ての者に共通しており、天使たちには最も完全に、霊達にはその者たちのそれぞれの性質に応じて共通しており、それは他の者の性質をその者が最初近づいてくるさいに知ることに在るのである。

 

 

天界の秘義1384

 

その最初の種類の認識については、すなわち、天使的なものであって、真で善いものを認識しまた主から発しているものと自分自身から発しているものを認識し、また自分の思考と言葉と行動の源泉と性質とを、それらのものが自分自身から発している時認識することから成っているものについては、わたしは最古代教会の子孫とともにその者たちの認識について語り合うことを許されたのである。かれらは以下のように言った。すなわち、自分たちは自分たち自身では何ごとも考えないし、また考えることもできない、また自分たち自身ではいかようなことも意志しないし[欲しないし]、意志することもできない、また何であれ、自分たちが考えたり、意志したり[欲したり]する凡ゆる事柄の中に、その全般的なものの中にも、個別的なものの中にも、自分たちは主から発しているものと、他の源泉から発しているものとを認識している、自分たちは如何ほどものが主から発しているか、また如何ほどのものが自分自身から発しているものとして発しているかを認識しているのみでなく、また、それが自分自身から発しているものとして発しているときは、それが何処から発しているか、また如何ような天使から発しているか、を認識しており、またそれと同様に天使達の性質を認識し、その思考は如何ようなものであるかを認識し、また凡ゆる相違を区別しており、かくて自分たちは流入とは如何ようなものであるかを、その他無数の事柄を認識しているのである。こうした種類の認識は多くの多様なものから成っているのである。

 

主に対する愛の中にいる天的な天使たちのもとには、善の認識[善を認識すること]が在り、そこから真理の凡ゆる物の認識[真理の凡ゆる物を認識すること]が在り、かれらは善から真理を認識しているため、真理について語ることは全く容認しないし、ましてやそれについて論じることは容認しておらず、たんにそれはそうである、またはそれはそうではないとしか言わないのである。

 

 それに反し、たとえ天的な天使達が持っているような認識ではなくても同様に認識を持っている霊的天使たちも、真理と善について語るものの、善と真理とを認識してはいるが、そこには相違があるのである。なぜならこの認識には無数の多様なもの[種類]があり、その多様なもの[種類]は事柄が主の意志のものであるか、否かにかかわる、それが主に許されているか、否かにかかわる、またはそれは主に容認されているか、否かにかかわるかれらの認識に関連しており、その凡ては互いに他から完全に区別されているからである。

 

 

 

天界の秘義1385

 

皮膚の領域に、とくに垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。

                

彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは以前聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。

 

 

天界の秘義1386

 

霊たちは自分は自分自身の指導下に在り、自分自身から考えており、自分は自分自身から知識と理解と知恵とを得ていると考えている限り、認識を持つことはできないで、それを作りごとだと信じている。

 

 

天界の秘義1387

 

世に生きている間、自分自身を凡ゆる事柄に透徹して、それを理解できるものとしてみとめた者らとわたしは認識についていくども話し合ったが、わたしはかれらに天使たちは自分が主から考え、話しており、また主から意志し、行動していることを認識していると告げたが、それでも彼らは認識とは何であるかを考えつくことはできないで、もし凡てのことがかりにもそのように流れ入るとするならば、自分らは生命をことごとく剥奪されてしまうであろう、なぜならそうした場合自分らは自分ら自身からは、または自分ら自身のものであるものからは何一つ考えはしないからである、自分らはそのことから生命を成立させていたのである、またそうした場合考えている者は他の者であって、自分ら自身ではなくなるであろう、だから自分らは生命を欠如した単なる器官にすぎなくなるであろうと考えたのである。しかし彼らは以下のように告げられた、すなわち、認識を持つこととそれを持たないこととの間の生命の相違は光と暗黒との間の相違のようなものであり、人間がそうした認識を受ける時始めて生きていると感じ始めるのである、なぜならそのとき彼らは主から生き、また彼ら自身のものであるものを得るのであって、それが凡ゆる幸福と歓喜とともに与えられるからである。認識における実情のいかようなものであるかもまた色々な経験によりかれらに示されて、その時はかれらもその可能性を承認はしたが、しかししばらくすると再び知らなくなり、疑い、否定もしたのである。このことから人間が認識の何であるかを把握することはいかに困難であるかが明白にされたのである。

 

 

 

天界の秘義1388

 

 前に言ったように、第二の種類の認識は凡ての者に共通しているものであり、天使には最も完全に、霊たちにはその特質に応じて共通しているものである。それは他の者が先ず近づいてくると、たとえその者が話さないにしても、その者の性質を知ることにあるのである。その者はその者自身を或る驚嘆すべき流入によって直ちに明らかにするのである。善良な霊については、その霊は如何ような善良さを持っているかが知られるのみでなく、また如何ような信仰を持っているかも知られ、その霊が語る時は、そのことはその霊の言葉の各々から知られるのである。悪い霊についてもその者は如何ような悪を持っているか、また如何ような不信仰を持っているかが知られ、その者が語ると、それは言葉の各々から知られ、しかも誤りが全然ありえない程にも明白に知られるのである。これに似たことが人間のもとにも現れている、なぜなら人間も同様に他人の身振り、目つき、または言葉から、その者の考えていることを、たとえそれが彼の言っていることとは相反していても、時には知ることができるからであり、こうした認識は人間には生来具わっていて、その起原と性格とを霊たちの性質から得ており、引いてはその人間自身の霊からまたその霊が霊たちの世界と交流していることから得ているのである。こうした交流から伝達される認識は主は凡ゆる善が伝達されることができて、凡ての者が相互愛により動かされ、かくして幸福になるようにと望まれているという事実にその起原を得ているのである。そこからこのような認識はまた遍く霊たちを支配しているのである。

 

 

 

天界の秘義1389

 

 他生に入ってきた霊魂は他の者の思考がこのように伝達されることに驚き、また彼らが他の人間の気質の特質のみでなく、その者の信仰の特質をも直ぐに知ることに驚いたのである。しかし彼らは霊はそれが身体から引き離されると更に遥かに卓越した能力を受けると告げられたのである。身体の生命の間では感覚の対象から来る流入があり、またその対象から記憶の内に内在している事柄から幻想が流入しており、さらに将来に対する不安があり、外なる物により刺激される種々の欲念があり、食物、衣服、住居、子供達その他に対する心づかいがあり、またその他の物もあるが、それらについては彼らは他生では何ら考えはしないのである、それでこうした妨げや煩わしさが粗悪な知覚を持った形体的な部分とともに除かれると、彼らは更に完全な状態の中にいないわけにはいかないのである。その同じ能力は残っているが、しかしそれは更に遥かに完全であり、澄明であり、自由であり、特に主における仁慈と信仰の中に、無垢の中に生きていた者たちにあってはそうである、なぜなら凡てこうした者たちの能力は彼らが身体の内で持っていたものの上に無限に高揚され、ついには第三の天界の天使たちの能力にさえも高揚されるからである。

 

 

 

天界の秘義1390

 

単に他の者の情愛と思考が伝達されるのみでなく、その者の記憶知もまた伝達されて、それは一人の霊が彼は他の者の知っていることを、たとえ彼がそのような事柄については何事も知らなかったにしても、知っていると考える程にもなっているのである。このようない他の凡ての者の知識が伝達されているのである。このように伝達されたものを保有している霊がおり、またそれを保有しない霊もいるのである。

 

 

 

天界の秘義1391

 

伝達は互に話し合うことによっても、また表象を伴った観念によっても行われている、なぜなら霊たちの思考の観念は同時に表象的なものとなっており、この方法により凡ての物は非常に豊かに提示されるからである。彼らは一千の言葉を使って表現することが出来るものよりもさらに多くのものを只一つの観念により表象することが出来るのである。しかし天使たちはその観念の中にあるものを、その情愛はいかようなものであるかを、その情愛の起原はいかようなものであるかを、その目的はいかようなものであるかを認め、さらに、内的な他の事柄をも認めている。

 

 

 

天界の秘義1392

 

 他生の歓喜と幸福とは驚嘆すべき真の伝道により一人から多くの者に伝達されるのが常であり、そのことによりかれらもまた同じように感動するが、こうした伝達はその伝達を行う者は何らの損失も受けることなしに行われている。私もまたこのように伝達により他の者に歓喜を伝達することが出来たのである。このことから自分自身を愛する以上に隣人を愛し、自分の幸福を他の者に伝えるに勝って他の何ごとをも欲しない者の幸福はいかようなものであるに違いないかを認めることが出来よう。こうした状態はこのように幸福を天使たちに伝えられている主から発しているのである。幸福の伝達はこのような不断の伝達であるが、しかしそれらはこのような活動的な起原から発しており、またいわば開かれた自発的な決定から発しているという反省は伴っていないのである。

 

 

 

天界の秘義1393

 

 伝達はまた取り除くことにより驚くべき方法をもって行われるが、しかしその性質は人間に認められることは出来ない。悲しい煩わしい事柄が一瞬にして取り除かれ、かくて歓喜と幸福とを与えるものが何の妨げもなしに提示される。なぜならそれらが取り除かれると、天使たちは流れ入ってきて、その幸福な感情を伝達するからである。

 

 

 

天界の秘義1394

 

 霊たちと天使たちとがその一致[和合]に応じて結合して社会を形成し、その不一致[不和]に応じて友情から分離しており、しかもそれが最小の相違でも分離されており、または結合させているほどにも精妙に行われているのは、たれにでも他の者の性質が愛と信仰との方面でいかような性質をもっているかを一瞬に知らせるような認識が存在しているためである。そこから諸天界の諸々の社会は互に他から、それ以上に明確に区別されているものを何一つ考えることができないほどにも明確に区別されており、しかもそれは主に対する愛と信仰との、数えることもできない凡ゆる相違に従っているのである。ここから一人の人間を表象しているといった天界の形が生まれていて、この形はたえず完成されつつあるのである。

 

 

 

天界の秘義1395

 

 こうした種類の認識についてはわたしは経験から多くの事柄を学んだが、それをすべて述べることは退屈させるであろう。わたしはしばしば詐欺漢が語るのを聞いて、詐欺がひそんでいるのを認めたのみでなく、その詐欺はいかようなものであるかを、その中にはいかような特殊な邪悪がひそんでいるかをもまた認めたのである。その声の一つ一つの調子にも詐欺の映像のようなものがあったのである。わたしはまたその詐欺がその語っている人間に属しているかを、またはその者を通して語っている他の者に属しているかを認めることもできたのである。憎悪を抱いている者らの場合も似ており、その憎悪の性質はすぐに認められ、またそのうちに人間が到底信じるようになることもできないほどの多くのものも認められるのである。その憎悪の対象となっている人物が示されると、嘆かわしい結果が起ってくる、なぜならその者らに対し考えられもし、また計画されもした事柄はことごとく眼前に現れてくるからである。

 

 

天界の秘義1396

 

 世に生きていた頃自分の行為と教えとに対する功績を自分自身に潜取しようと欲した或る霊が一人右手の方へ行って、このような性格を持たなかった者たちのもとへ来た。彼は彼らと共になろうとして、自分はまことに取るに足らないものであるが、あなたたちにお仕えしたいと願っていると言ったが、忽ち、彼が近づくや否や、実に彼がなお遠くにいる間にさえも、彼らはその者がいかようなもであるかを認めて、直ぐに、あなたはあなたが言われているような者ではない、あなたは偉大な者になろうと願っておられる、だから小さい者であるわたしらとは和合することは出来ないと答えたのである。彼はこの言葉を恥じ、彼らが彼をかくも離れているうちにも知っていることに驚きながら、去ったのである。

 

 

 

天界の秘義1397

 

 その認識は極めて精妙であるため、悪霊は相互愛の中にいる者がいるスフィアへ、またいかような社会へも近づくことはできない。かれらは単にそこへ近づくのみで、苦しみ始め、不平を言い、嘆くのである。悪い霊が一人だいたんにもまた自己を信頼して、天界の最初の入口にある或る一つの社会へ、厚かましくも入り込んだが、その着いた瞬間からほとんど呼吸することもできなくなって、自分自身から発する死臭をかいで、そのため後に倒れてしまったのである。

 

 

 

天界の秘義1398

 

 善良でない数人の霊がわたしの周りにいた。一人の天使が近づいてきた、するとわたしはその霊どもがその天使がその場にいるのに堪えることができないのを認めた。なぜならかれが近づくにつれて、彼らは益々後退したからである。わたしはこれを怪しんだが、しかしその霊どもはかれがその身につけているそのスフィアの中に止まることができないことを知ることができたのである。このことから、また他の経験からも、一人の天使でさえも百万の悪霊を追い立てることができることが明らかにされたのである、なぜならかれらは相互愛のスフィアには堪えることができないからである。それでもその天使のスフィアはその天使とともにいた他の者たちにより和らげられていたことが認められたのである、すなわち、もしそれが和らげられていなかったなら、かれらは凡て四散してしまったのである。この凡てから他生にはいかに完全な認識が存在しているかが明白である。またそこにいる者たちはその認識に応じていかに共に結ばれ、また友情から引きはなされているかも明白である。

 

 

 

天界の秘義1399

 

 霊は各々たとえ彼はそのことを全く知ってはいないものの、内的な天界と最も内なる天界と交流しており、そうした交流[伝達]が無いなら、彼は生きることが出来ないのである。彼は内的にはいかようなものであるかは、彼の内部にいる天使たちにより知られており、また彼はこれらの天使たちを手段として[これらの天使たちを通して]主により支配されているのである。かくて霊達の世界に彼の外部の交流[伝達]があるように、天界には彼の内部の交流[伝達]がある。内的な交流[伝達]により彼は彼の知識を越えて用を求める性向を与えられ、その用へ導かれる。人間の場合も同一であり、彼も同様に―彼はそのことを全く知らなけれど―なぜならもしそうでないならば、かれは生きることができないからである。そこから人間の思考の中へ流れ入ってくる事柄は究極の結果に過ぎないのであって、人間の生命はことごとくこの源泉から発しており、その源泉から彼の生命の凡ての努力は支配されているのである

 

 

 

天界の秘義1400

 

 認識とそこから発しているスフィアについてはさらに本章の終りにつづいて話すことにしよう。

 

 

 

天界の秘義1931

 

「かれは言った、サライの女中、ハガルよ」。これは知らせることを意味していることは(記事の)連続から明白である、なぜならハガルは天使から恰も天使が知らされなくてはならないかのように話しかけられているからである。エホバは事の以前にすべての事を、単に行われていることのみでなく、原因と目的をも知られ、かくて最小のことも最も内なることも知られてはいるけれど、エホバが人間に尋ねられて、人間がそれに答えることは、聖言では普通のこととされている。しかし人間はそのことを[エホバはすべてのことを知られていることを]知っていないで、自分が誰一人見ていなときにひそかに行うことはたれからも決して知られるはずはない、ましてや自分が考えていることは知られるはずはないと信じているため、それで事柄はその人間の信念にしたがって起きるのである。しかしそれでも普通の霊たちでさえも人間が考えていることはその人間自身よりもさらに良く認めており、天使的な霊たちはその人間の思考のさらに内的なものを認めており、天使たちはそれよりもさらに内的なものさえも、すなわち、その人間にもほとんど知られていない原因と目的さえも認めているということは実さい真のことである。わたしはこのことを多年に及んでいる多くのまた絶え間のない経験により知ることができたのである。霊たちと天使たちでさえこうしたことを認めているからには、ましてや無限な方であられ、すべての者に認識するその能力を与えられている主にあっては、またはエホバにあっては、何を認められないことがあろうか。