認識と呼ばれるさらにすぐれた良心

 

 

 

新エルサレムの教義135

 

隣人に対する仁慈にいる者たちのもとでは、良心は真理の信仰により形作られているため、それは真理の良心であるが、しかし主に対する愛にいる者たちのもとでは、それは真理の愛[真理を愛する愛]により形作られているため、善の良心である。

 

これらの者の良心はさらにすぐれた良心であり、善から発した真理認識[善から真理を認識するもの]と呼ばれている。真理の良心を持つ者たちは主の霊的王国にぞくしているが、認識と呼ばれるところの、さらにすぐれた良心を持つ者たちは主の天的王国に属している。

 

 

天界の秘義370

 

 9節「エホバはカインに言われた、あなたの弟アベルはどこにいますか。かれは言った、わたしはわたしの弟の番人ですか。」『エホバはカインに言われた』は人事または弟アベルについて指示をかれらに与えた内から発した一種の認知を意味している。『わたしは知りません。わたしは弟の番人ですか』というカインの答えは、信仰は、仁慈を無意味なものとして考えて、仁慈に従うことを欲しないことを、従って信仰は仁慈の凡ゆる物を斥けてしまったことを意味している。かれらの教義はこのようなものになったのである。

 

 

天界の秘義371

 

 『エホバは言われた』により最古代の人々は認識を意味したのである、なぜならかれらは主はかれらに認識する能力を与えられることを知っていたからである。この認識は愛が第一義的なものである間のみ継続して、それを越えては継続できなかったのである。主に対する愛がなくなり、従って隣人に対する愛もなくなると、認識は消滅したが、しかし愛が残存している限り、認識も残存したのである。この認識する能力は最古代教会に特有なものであったが、しかし洪水以後の人々の場合のように、信仰が愛から分離し、仁慈が信仰を通して与えられると、良心が続いて起ったのである。この良心もまた指示は与えはするものの、その与える方法は異なっているのである、このことについては、主の神的慈悲の下に今後述べよう。良心が指示する時も、聖言では同じく『エホバが言われた』と言われているが、それは良心は啓示されたものから、知識から、また聖言から形作られ、聖言が語り、または指示する時、語るのは主であるためであって、それで現今でさえ良心または信仰の事柄に言及する際、『主は言われた』と語ることが極めて普通である。

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P16

 

 完徳を熱望しなければならない。それは、霊魂の本質的願いだからである。あなた達のその良い意志の中に、非常な力が包含されているからである。あなた達は神の似姿である、と記されている。それは、あなた達の良心の中には、自分の状態の様々な段階を識別させることのできる目がある、ということを意味する。