熱・寒さ

 

 

 

天界の秘義4175

 

『熱』と『寒さ』の意義は余りに多くの愛から発しているものと全く愛から発していないものであり、かくて二つの極端なもの(中略)

 

『熱』が余りに多い愛を意味している理由は霊的な火と熱とは愛であり、他方、霊的な寒さは愛が全くないことであるということである。なぜなら人間の生命そのものは愛以外の何ものでもないからである、なぜなら愛なしには人間はいかような生命ももっていないからである、いな、もしかれが反省しようとするなら、かれはかれの身体の中の生命の火と熱とはことごとくとこの源泉から発していることを知ることができるのである。それでも『寒さ』は愛をすべて剥奪されることを意味しないで、霊的な天界的な愛を剥奪されることを意味しており、この愛を剥奪されることが霊的な死と呼ばれるものである。人間がこの愛を剥奪されると、かれは自己と世への愛とに燃え立つのである。この愛は相対的には冷たいものであり、またたんに人間が身体の中に生きている時のみでなく、他生に入ってくる時もかれのもとで冷たくなるのである。もしかれが身体の中に生きている時自己と世と求める愛がかれから取り去られるなら、かれはほとんどいかような生命をも持たないほどにも冷たくなってしまい、それと同じことがもしかれが天界の事柄と神の事柄とを聖い態度で考えるように強いられるなら起るのである。他生では、このような人間が奈落の者らの間に来るときは、かれは欲念の火または熱の中にいるが、しかし天界に近づくなら、この火と熱とは寒さに変わり、近づくに従って益々それが激しくなり、苦しさも同程度に増大するのである。この寒さが地獄にいる者らに帰せられている『歯がみ』により意味されているものである(マタイ8・12、13・42、50、22・13、24・51、25・30、ルカ13・28)。

 

 

天界の秘義6032[3]

 

そしてこの霊的な熱は実に熱であって、天使たちの身体を熱で喜ばせると同時に、かれらの内部を愛をもって喜ばせるのである。ここから聖言の『熱』、『焔』、『火』によりその純粋な意義では愛にぞくしているもの、たとえば、善に対する、また真理に対する情愛が、また善そのものが意味されているのである。