粘土
イザヤ29・16
お前たちはなんとゆがんでいることか。
陶工が粘土と同じに見なされうるのか。
造られた者が、造った者に言いうるのか
「彼がわたしを造ったのではない」と。
陶器が、陶工に言いうるのか
「彼には分別がない」と。
イザヤ45・9
災いだ、土の器のかけらにすぎないのに
自分の造り主と争う者は。
粘土が陶工に言うだろうか
「何をしているのか
あなたの作ったものに取っ手がない」などと。
イザヤ64・7
しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手の業。
エレミヤ18・4−6
陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。
そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。
「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。
ローマ9・20
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
天界の秘義1300
『しっくい』(または『ねば土』)は教会の心または人間を作る善を意味していることもまた聖言から明白である。イザヤ書には以下のように―
それで、ああ、エホバよ。あなたはわたしたちの父であられます、わたしたちはねば土であり、あなたはわたしたちの陶物師であられる。わたしたちは凡てあなたの御手の業である(64・8)
『ねば土』は形作られつつある教会の人間そのものを意味しており、『ねば土』は形作られつつある教会の人間そのものを意味しており、かくして人間が形作られ、すなわち、人間が改良され、再生する手段となるところの仁慈の善を意味している。エレミヤ記には―
ねば土が陶物師の手の中に在るように、わたしたちもあなたの御手の中にイスラエルの家の中におります(18・6)
この意味も類似している。ねば土によって建てることが述べられていようと、または形作られることが言われていようと何れも意味は同じである。
天界の秘義2162
また『粘土』は善を意味していることは、1300番に認めることができよう。
天界の秘義6669
「粘土における、煉瓦における」。これは、彼らが考案した悪と、また彼らが案出した誤謬によって、を意味していることは以下から明白である、即ち、『粘土』の意義は善であり、その対立した意義では悪であり(そのことについては以下に述べよう)、『煉瓦』の意義は彼らの案出する誤謬である(1296番を参照。奈落の輩の考案し、案出する悪と誤謬については、すぐ前の6666番を参照)。
『粘土』は誤謬が発生して来る悪を意味していることは聖言の以下の記事から明らかである―
邪悪な者は掻き立てられて、休むことの出来ない海のようなものであり、その水は泥と粘土とを打ち上げる(イザヤ57・20)。
『泥』は悪を生み出す誤謬を、『粘土』は誤謬を生み出す悪を意味している。
天界の秘義6669〔4〕
しかし『粘土』は以下の記事では善を意味している―
ああ、エホバよ、あなたは私たちの父であられ、私たちは粘土であります、あなたは私たちのすえもの師であられ、私たちはあなたの御手の業であります(イザヤ64・8)。
『粘土』は改良されつつある教会の人間を意味し、かくて人間が形作られる、即ち、改良される手段である信仰の善を意味している。