奈落の自由
天界の秘義1947
人間は再生しつつある間は、かれは主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことによりかれは天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―
真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32,36)。
この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜならかれらは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―
罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)
この奴隷的な自由をかれらはかれらとともにいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、かれらはこれらの霊の生命の内にいるときは、またかれらの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜がかれらに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行くときは、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、かれらを地獄に引きずりおろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、かれらを天界へ引き上げるということである。
天界の秘義2884
自己と世を求める愛とそのいくたの欲念の自由は完全な奴隷であって、決して自由ではないが、しかし依然それは丁度愛と情愛と歓喜が両方の意味で自由と呼ばれているように、自由と呼ばれている、それでも自己と世を求める愛は決して愛ではなくて、憎悪であり、その情愛と歓喜も同様に憎悪である。それらはその外観に従ってそのように呼ばれているのであって、その実体に従っているのではない。
天界の秘義5763
「それがそのもとに在ることが判明した者はわたしの僕となり」。これは、それがそのもとに在る者は永久にその者自身の自由を持ちはしないということを意味していることは、『僕』の意義から明白であり、それは(前の5760番のように)自分自身の自由を持たないということである。実情は以下のごとくである。ヨセフの命令によりベニヤミンのもとにおかれたその銀の杯は、内的な真理を意味しているのである(5736、5747番を参照)。内的な真理の中にいる者は、真理と善とは凡て主から発していることを知り、また自分自身のものから、またはその人間自身から発している自由は凡て奈落のものであることを知っているのである、なぜなら人間はその人間自身の自由から何ごとかを考え、または行うときは、悪意外には何ごとも考えはしないし、また行いもしないからである。従ってかれは悪魔の僕である、なぜなら悪は凡て地獄から流れ入るからである。かれはまたそのような自由に歓喜を感じている、なぜならそれはかれがその中にいて、またその中へ生まれてきた悪と一致しているからである。それゆえ自分自身のものから発しているこの自由が脱ぎ棄てられ、代って善いことを欲し、そこからその善いことを行い、また真のことを欲し、そこからそれを考えることから成っている天界の自由を着けなくてはならないのである。人間はこの自由を受けると、主の僕となり、そのときは自由そのものの中にいて、以前かれがその中にいて、自由のように見えたところのその奴隷の状態にはいないのである。それゆえこれが永久に自分自身の自由をもたずにいるということにより意味されていることである。(自由の性質と源泉とは前の2870−2893番に、また自由そのものは主からにより導かれることであるということは2890番に見ることができよう)。