何者かであろうとする
1.ルイザ・ピッカレ―タ
2.ヴァッスーラ
3.トマス・ア・ケンピス
4.スウェーデンボルグ
1.ルイザ・ピッカレ―タ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P110
我が娘よ、人間の中で、どこから悪が始まるか知りたいか? その始まりは、人が自分自身を知るとき、つまり道理を分り始めるやいなや自分自身に「ぼくは、人物である」と言うときである。彼は自分が何者かであると信じて、私から離れて私を信頼しなくなる。それが原因となって、色々な善い原則の目標を見失うということが起こる。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P232
我が娘よ、私の前や人々の前で、自分が何者かであると信じている人は、何の価値にも値しない。自分が無であると信じる人は、すべてに値する。私の前で一番になる人とは、何かをすることが出来、その力と能力をもっていても、それをしていないと信じる人である。この人は神から恵み、助け、そして照らしを受けるから行うことができるのだ。つまりこの人は、神の権能のおかげで働くことができるのだと言える。神の権能を自分自身とともに有している人は、すべてに値するのである。
人間は、この神の権能のおかげで行動することによって、それはまったく異なった働きとなる。このような行動は、神の権能が有している光を伝承することだけをする。ゆえにもっとも邪悪な者も、気づかないうちにこの光の力を感じて、その意志に自分を従わせる。人々の前においても同じことが言え、他の人たちもすべてに値するようになる。
反対に、自分が何かに値すると信じている人は、何にも値しないだけでなく、私の存在の前ではいまわしい者ともなり、何者かであると信じているこのような人たちが取る、見かけ倒しで欠点だらけのやり方は、他の人たちを馬鹿にすることにもなる。だから人々は、このような者を、嘲笑と迫害の目標として指さすようになるだろう。
2.ヴァッスーラ
‘87・11・8
ヴァッスーラ 決して何者かであることを求めないように。 無のままでいなさい 達成する全ての聖なるわざは純粋に私のものであり あなたによるのではない
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P118
‘89・2・9
♡ 我が小さな霊魂たちは幸い、この者たちを特別に愛している。 小さく単純なままでいなさい、何者かになろうとはしないように、我が聖心の深奥に 忍び込めるよう 小さいままでいなさい。 幼児の−ような−信仰を持つ、子どものようでありなさい、御父はそれを喜ばれる ♡
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P142
‘96・1・31
私に残された者よ、まさにそのみじめさと、寛大さをもって 多くを救う、しかし覚えておくように、私に名誉となるその仕草はどれも 私に由来するもの・・・・そこで自分を高く評価しようとするどんな傾きをも 退けなさい・・・・あと少しだけ忍耐するように。 愛を必要とするみじめな者を見ながら、私の心を与えずにいたことがあろうか?
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P234
‘99・1・20
誰も ほかの人の主人ではない(*) 私だけが 主なる者。
悔い改めて私に顔を向け その善意を証しするようにとすすめる。いつでも相談しにきなさい ヴァッスーラ、私が答えよう。あなたを祝福する、希望を 手放さないように(*1)。
* 言い換えるなら、神のために働くグループの中で、ほかの人に命令を下したり すべてを「検閲」するような、絶対者がいてはならない、とイエスは仰っています。 *1「私を手放さないように」:という意味。
勇気を 娘よ。 ic
このメッセージは二つのTLIGアソシエーションに向けて与えられたのですが、私としては 不一致や意見の相違があるのを知りませんでした。どのアソシエーションかはヴィジョンのあとで分かり、関わっている人たちも主は分からせて下さいました。
特に一人は 皆の「ボスに」なっていたのです。イエスは気を損ねておられました。ほかの人たちのことも喜んではおられませんでした。落ちて致命傷を負う危険があったので、神は その限りない愛ゆえに介入なさったのです。
3.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・4・2
あなたの罪を思い出しては、大いにこれを厭い悲しめ。たとい善業があったにしても、そのため自分をひとかどの者と思ってはならぬ。あなたはまことに多くの情欲に、支配され、まといつかれている罪びとである。
あなた独りだけでは、つねにむなしいことのために馳せまわるばかり、たちまちに倒れ、たちまちに負け、たちまちに混乱し、たちまちに狼狽するだろう。
あなたに誇るべきところは一つもない。けれども恥ずべきところはたくさんある。あなたは自分でわからないくらい弱い者なのである。
4.スウェーデンボルグ
天界の秘義9039
天界にいて信仰の真理からこの上もなく理知があり、また知恵のある者たちは、力の一切を主に帰して、何一つ自分自身には帰してはいないほどにもへり下っており、彼らは光栄と喜びとを支配することにはおかないで、仕えることにおいており、彼らはこうした状態にいるときは他の者にまさって支配しているのであり、また光栄と喜びを覚えているのであるが、それでもそれは支配を求める愛から発しているのではなくて、他の者に仕えることを求める情愛であるところの、愛と仁慈とに対する情愛から発しているのである。なぜなら主はへり下っている者たちのもとへ力をもって流れ入られるが、自負の念でふくれ上がっている者らの中へは流れ入られはしないからである。それは前の者は流入を受けるが、しかし後の者はそれを斥けてしまうためである。
7489−7492