ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P36

 

人間からの賞讃と軽蔑についてイエズスは話す。

1899年4月25日

 

 今日私は、人びとが誉めそやす害について静かに考えていた。人から誉めそやされたいという気持ちが私にもあるかしらと考えていたら、イエズスが近づいてきて、次のように言いました。

 

「心が自己をよく認識しているなら、他人からの誉め言葉は、ちょうど海の波のように盛り上がっては引いてゆき、決して浜辺を越えることはない。人びとの誉め言葉は大声で、騒ぎ立て、心にまで押し寄せてきても、心が足りていて、堅固な外壁に囲まれている(つまり自己を知っている)なら、どこから侵入してよいのか分からないので、魂に何の害も加えることなく引いてゆきます。他人の賞讃や軽蔑に警戒しなさい。そんなものには気をとられないで。」

 

 

天界の秘義6853

 

「私は彼らの悲しみを知ったからである」。 これは、いかほど彼らが誤謬に浸されるかについて先見されたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『知ること』の意義は、それが主について言われる時は、先見であり(『知ること』は先見を意味していることは、主は永遠から一切の物を知っておられるためである)、『悲しみ』の意義は誤謬に浸されることである、なぜなら善の中にいる者は、誤謬に浸されると、苦悶し、不安を抱き、責め苛まれるからである、なぜなら彼らは真理を愛して、誤謬を嫌悪し、絶えず救いについて考え、また誤謬に万が一にも支配されるなら、その(陥る)不幸について考えるからである。しかし善の中にいない者らは、自分が誤謬の中にいるか、または真理の中にいるか、を意に介しはしないのである、なぜなら彼らは救いについて、または不幸については、そうしたものは信じていないため、全く考えはしないからである。自己と世を求める愛の歓喜は死後の生命に対する信念をことごとく奪い去ってしまうのである。こうした人物は絶えず誤謬の中に浸されている。誤謬に浸されることは他生では波の中に浸されている者のように現れ、その波は誤謬が甚だしくなるに応じて益々高くなり、遂には、その者の頭上にも達しており、その波はその誤謬の性質に従って希薄にも、濃厚にも見えるのである。邪悪な者にあっては、その浸されることは霧のようなものとして、また多少薄暗い雲のようなものとして見え、それが彼らをとりまいており、天界の光のうららかさから全く彼らを分離しているのである。