泣く

 

 

天界の秘義3801

 

「声を上げて泣いた」。これは愛の熱意を意味していることは、『声を上げて泣くこと』の意義から明白であり、それは愛の熱意である、なぜなら泣くことは悲しみにも、また愛にもぞくしており、その各々の最高度のものであるからである。

 

 

天界の秘義5480

 

「泣いた」。これは慈悲を意味していることは、『泣くこと』の意義から明白であり、それはここにヨセフにより表象されている主について述べられているときは、慈悲深いことである。泣くことが悲哀と愛とを表現していることは良く知られており、従ってそれは慈悲または憐れみを表現している、なぜなら慈悲は愛が悲しむことであるからである。それで神の愛は慈悲と呼ばれているが、それは人類はそれ自身では地獄の中にいるためであり、人間がそのことを自分自身の内に認めるとき、かれは慈悲を懇願するのである。泣くことはまたその内意では慈悲であるため、それで聖言では『泣くこと』がときどきエホバまたは主についても述べられている、例えばイザヤ書では―

 

 わたしはシブマのぶどうの木、ヤゼルのために泣きに泣こう、ああヘシボンとエレアレよ、わたしはおまえにわたしの涙の水を注ごう(イザヤ16・9)。

 

エレミア記には―

 

 エホバは言われる、わたしはモアブの憤りを知り、その正しくないこと(を知っている)。それでわたしはモアブのために泣き叫ぼう、凡てのモアブのために叫び立てよう。ヤゼルの泣くにまさってわたしはあなたのために泣こう、ああシブマのぶどうの木よ(エレミア48・30−32)。

 

『モアブ』は自然的な善の中にはいるが、自らが迷わされるに甘んじ、迷わされると、善を不善化する者らを意味しており(2468番を参照)、『泣き叫ぶこと』、『叫びたてること』、『泣くこと』は憐れんで、悲しむことを意味している。ルカ伝にも同じく―

 

 イエスは近づかれたとき、都を見られて、そのために泣かれた(ルカ19・41)。

 

 イエスはエルサレムのために泣かれ、またそれを憐れんで、そのために悲しまれたが、そのエルサレムはたんにエルサレムの都のみでなく、教会であったのであり、その教会の最後の日が―そのときは仁慈はもはやなくなり、従って信仰もなくなるのであるが、その最後の日が―その内意に意味されているのであり、そのため主は憐れみと悲しみのあまり泣かれたのである。(『エルサレム』は教会であることは前の2117、3654番に見ることができよう)。