1.善に対する情愛

2.善

3.欲念

4.教会

5.宗教体系が発生した源泉である悪と誤謬とを求める愛、かくてその宗教体系そのもの

6.『エジプトの娘』、信仰の諸真理について、それがそうしたものであるか、ないかについて記憶知から論じる情愛

7.カナン人の娘

 

 

 

 

 

1.善に対する情愛

 

天界の秘義6729

 

「パロの娘が降りて来た」。これはそこの宗教性〔宗教心、宗教〕を意味されていることは『娘』の意義から明白であり、それは真理と善に対する情愛であり、そこから教会であり(2362、3963番を参照)、その対立した意義では誤謬と悪に対する情愛であり、そこから誤謬と悪から発した宗教心であり(3024番)、ここでは、それがパロの娘であったため、誤った記憶知から発した宗教心である、なぜならパロによりここでは誤った記憶知が表象されているからである(6651、6679、6683、6692番を参照)。

 

 

黙示録講解175

 

善に対する情愛

 

2.善

 

天界の秘義6793

 

『娘』の意義は善であり(489−491番を参照)、また教会であり(2362、3963、6729番)、『チッポラ』はその教会の善の性質を意味しており、モーセの表象は真の記憶知である(6784番)。

 

 

 

3.欲念

 

 

天界の秘義555

 

教会がその許に在った人間を諸々の欲念が―これが『娘』である―が支配し始めた。また彼らは信仰の教義的な物を己が諸々の欲念に連結し、かくて諸々の悪と誤謬とを確認した、そのことが『神の子らは人の娘を妻として自分自身に取ること』により意味されている(創世記6・1、2)。

 

 

 

天界の秘義568

 

 『娘』はかの人間の意志に属したものを意味し、従って諸々の欲念を意味していることは、前章(4節)に『息子と娘』について語られ、示されたことから明らかであり、そこでは『息子』は真理を『娘』は善を意味しているのである。『娘』はまたは善は意志に属しているが、しかし人間の如何にその理解が応じ、またその意志が応じており、かくて『息子と娘』とが応じている。現在の記事は腐敗した状態にある人間をとり扱っており、その人間は意志を持っていないで、意志の代わりに欲念を持っているに過ぎないのであり、その欲望が彼には意志であると考えられ、またそのように呼ばれているのである。属性として記されていることは、その属性を記されている物の性質に順応しており、ここに娘が属性づけられている人は腐敗した人間であったことは前に示しておいた。『娘』は意志の諸々のものを意味し、善の意志が無いところでは、欲念を意味している理由は、また『息子』は理解の諸々のものを意味し、真理の理解が無いところでは[真理が理解されない所では]幻想を意味している理由は、女性は理解よりも意志または欲念に支配されるように形作られているということである。それが女性の性格の気質全体であり、またそれが女性の性質であるに反し、男性は理知または理性に支配されるように形作られており。それがまた男性の性格の気質であり、またそれが男性の性質である。ここから両者の結婚は人間各々の意志と理解の結婚に似ておりそして現今善の意志は無くて、単に欲念のみが在るに過ぎないが、しかし依然理知的なものが、または合理的なものが与えられることが出来る以上、そのことが男の特権と妻の服従についてユダヤ教会に極めて多くの律法が制定された理由となっている。

 

 

4.教会

 

天界の秘義3024[2]

 

 『カナン人の娘』は真理に一致しない情愛を、すなわち、誤ったものを求める情愛を意味していることは、『娘』の意義から明白である、なぜなら娘は聖言の多くの記事に記されており、たれでも娘がそこに意味されていないことを認めることが出来るからである―例えば、『シオンの娘』『エルサレムの娘』『タルシシの娘』『わたしの民の娘』と言われている所ではそのことは意味されてはいないのである。これらにより善の情愛[善を求める情愛]と真理の情愛[真理を求める情愛]とが意味されていることは前に引用した記事に示したところである、そしてそれらは善の情愛と真理の情愛であるため、それらはまた教会である、なぜなら教会はこれらの情愛から教会であるからである。かくて『シオンの娘』により天的な教会が意味されていて、これは善の情愛から発しているが、しかし『エルサレムの娘』により、真理の情愛から、霊的な教会が意味されているのであう(2362番)、このことはまた『わたしの民の娘』によっても意味されている(イザヤ22・4、エレミア記6・14、26、8・19、21−23、14・17、哀歌2・11、4・6、エゼキエル13・17)。

 

 

5.宗教体系が発生した源泉である悪と誤謬とを求める愛、かくてその宗教体系そのもの

 

天界の秘義3024[3]

 

このことからいくたの国民の『娘』により意味されていることが明白であり、例えば『ペリシテ人の娘』、『ツロとシドンの娘』、『エドムの娘』、『モアブの娘』、『カルデヤじんの娘』、『バビロンの娘』、『ソドムの娘』により意味されていることが明白であり、すなわち、彼らの宗教体系が発生した源泉である悪と誤謬とを求める愛が意味され、かくてその宗教体系そのものが意味されているのである。こうしたものが『娘』の意義であることは、以下の記事から認めることができよう。エゼキエル書には―

 

諸々の国民の娘たちはエジプトのために嘆くであろう。エジプトの群集のために嘆き、彼女を、彼女とその名ある諸国民の娘たちとを、坑に降る者らとともに、下方の領域の地を降りて行かせよ(エゼキエル32・16、18)。

 

『その名ある諸国民の娘たち』は悪の情愛を意味している。サムエル書には―

 

 それをガテの中で話してはならない、それをアシケロンの街々の中で布れてはならない、ペリシテ人の娘たちが喜ばないためである、無割礼の者の娘らが勝ち誇らないためである(サムエル記後1・20)。

 

エゼキエル書には―

 

 おまえはエジプトの息子らと淫行を犯した、わたしは、おまえの邪しまが発見されない中に、おまえを、おまえを憎む者らの意志に、ペリシテ人の娘ら(の意志)に委ねた、それはシリヤの娘らを、その周囲に在る凡ての者を、周りことごとくからおまえを侮るペリシテ人の娘らを咎めた時のようである(エゼキエル16・26、27、57)。

 

 娘たちがここに意味されているのではなくて、ペリシテ人により意味されているような者らの宗教心が意味されていることはたれでも認めることが出来よう、それは信仰については多くのことを語りはするが、しかし何ら信仰の生活を送らないといった種類のものであり(1197、1198番を参照)、こうした理由から彼らはまた『無割礼の者』、すなわち、仁慈を欠いた者らと呼ばれている。

 

 

6.『エジプトの娘』、信仰の諸真理について、それがそうしたものであるか、ないかについて記憶知から論じる情愛

 

天界の秘義3024[4]

 

 エレミア記には―

 

 ああエジプトの娘、処女よ、ギレアデに登り、香油を取りなさい、ああ、エジプトに住む娘よ、流罪の船を作りなさい。エジプトの娘たちは恥ずかしめられるであろう、彼女は北の民の手に渡されてしまった(エレミア46・11,19,24)。

 

『エジプトの娘』は信仰の諸真理について、それがそうしたものであるか、ないかについて記憶知から論じる情愛を意味しており、かくてそこから起ってくる種類の宗教を意味しているが、それは感覚により把握されるものを除いては何ものも信じないといったものであり、かくて信仰の真理は何一つ信じないといったものである(215、232、233、1164、1165、1186、1385、2196、2203、2209、2568、2588番を参照)。

 

 

天界の秘義6729

 

ああエジプトの処女よ、娘よ、ギレアデに上り、香油を取れよ。ああ、エジプトに住む娘よ、移住の器を作れよ。エジプトの娘は恥ずかしめられた、彼女は北の民の手に渡された(エレミア46・11、19、24)。

 

『エジプトの娘』は、否定的なものが支配しているとき、信仰の諸真理について、何かの事柄がそのようなものであるか、否かと、記憶知から論じる情愛を意味し、かくてそれはそこら生まれる宗教心を意味し、その宗教心は誤謬以外には何ごとも信じられはしない性質のものである。

 

 

7.カナン人の娘

 

天界の秘義3024[7]

 

 イスラエルの人たちはカナン人の娘たちと結婚の約束をしてはならなかったこともまた善と誤謬とは、悪と真理とは共に結合されてはならないという霊的法則に関係していたのである、なぜならそこから冒涜が発生するからである。その禁止はまた、申命記7・3に記されている事柄を表象したのであり、またマラキ書には―

 

 ユダは他国の神の娘を愛し、これと結婚して、エホバの聖さを冒涜した(マラキ2・11)。