妄想

 

 

 

天界の秘義6400[2]

 

 真理の中にはいるが、未だ善の中にいない者らは最低の自然から発している妄想から善と真理について論じるため、妄想の何であるかを言う必要がある。例えば死後の生命を考えられたい。真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者らのように、最低の自然から発した妄想の中にいる者らは人間の中にはその身体以外には生きるものが何か在ることを信じはしないし、また人間は死ぬと、その身体を再び受けない限り、再び甦ることが出来ることも信じはしないのである。もし彼らは、身体の内には内的な人が生きていて、それは身体が死ぬ時主により甦らされ、人間は甦ると、霊または天使たちが持っているような身体を持っており、見、聞き、語り、他と交わり、丁度この世の人間のように、自分が全く人間のように自分自身に見えるということを告げられても、それを把握することは出来ないのである。最低の自然から発した妄想から彼らはこうした事は不可能であると信じるが、それは主として彼らはそれを彼らの身体の肉眼で見ないという理由からである。

 

 

天界の秘義6400[3]

 

 更にこのような人物は霊または霊魂について考えると、それについては自然の中の目に見えない物について抱くような考え以外にはいかような考えも抱かないで、そこからそれを単なる息か、または空気のようなもの、またはエーテルのようなもの、または焔のようなものとしてしまい、中には、それが再び身体に結合されるまでは殆ど何ら生命力を持っていない単なる思考力であると考える者もいるのである。彼らがこのように考える理由は彼らには内的なものは凡て陰と暗黒の中に置かれ、ただ外なる物のみが光の中に在るということであり、そのことは彼らはいかに容易に過ちに陥るかを示している、なぜなら彼らは身体がいかようにして再び共に集められることが出来るかにつき、世の破壊につき、そのことはかくも多くの代に亘って徒に期待されてきたことにつき、獣も人間の生命に似ていなくはない生命を持っていることにつき、死んだ者は一人として現れてきて、その生命の状態を知らせはしないことにつきただ考えさえするなら―彼らはこうしたことやまたその他それに類したことを考える時は、容易に復活の信仰から遠ざかるのであるが、他の多くの場合でも同じである。その理由は彼らは善の中にはいないで、善を通して光の中にいないということである。これが彼らの状態であるため、『その乗る者は後向きに倒れる、ああ、エホバよ、私はあなたの救いを待っています』とまた言われているのである。このことにより主が助けを与えられない限り、そこから後退が生まれることが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義6948〔3〕

 

感覚的なものから高揚されていないで、その中におり、そこから考える人間は迷妄〔妄想〕から考えることは例により説明することが出来よう、即ち、人間の生命について抱かれる妄想は、それが身体の中の霊に属しているのに、身体に属しているということである。(中略)天界と地獄とについての妄想は、天界と地獄も人間の中に在るのに、天界は人間の上に、地獄は人間の下に在るという考えである。(中略)その他自然的な事柄においても幾多の妄想が抱かれ、それが極めて多くの人物の矛盾した憶測を生んでいるのである。

 

 

 

天界の秘義7293

 

「それは水蛇になるであろう」。これは、そのことにより迷妄〔妄想〕とそこから派生する誤謬のみが彼らを支配するであろう、を意味していることは、『蛇』の意義から明白であり、それは感覚的な身体的なものであり(6949番を参照)、そこから妄想である、なぜなら感覚的な、身体的なものは、合理的なものから分離すると、即ち、それに服従しないと、妄想に満ち、そのためそれは殆ど妄想以外の何ものでもなくなるからである(6948、6949番)。ここに意味されているものは水蛇である、なぜなら原語では、『蛇』はここでは海の最大の魚である『鯨』と同じ言葉により表現され、『鯨』は全般的な記憶知を意味しているからである。それで『エジプト人』により妄想から発した誤謬が意味されているため、この言葉は蛇を、即ち、水蛇を意味するのである、なぜならそれは水の中にいる鯨を意味しているからであり、またエジプトの水は誤謬であるからである。