黙示録第1章
この啓示は主のみから発しており、それは新しいエルサレムである
新しい教会の中にいて、主を天地の神として承認する者たちにより
受け入れられるものである。主はまた聖言の方面で記されている。
(スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説上巻/静思社刊/P26)
1.イエス・キリストの啓示
2.僕たち
3.すぐに
4.天使
5.ヨハネ
6.予言
7.時は近いからである
8.七つの教会
9.アジアに在るところの
10.今おられ、前におられ、後に来られる方から
11.王座の前に在る七つの霊
12.イエス・キリストから
13.忠実な証人
14.死んだ者たちから最初に生まれた方
15.その血
16.王と祭司
17.神と父
18.かれに代々栄光と力がありますように
19.アーメン
20.兄弟、仲間
21.霊の中に
22.わたしはわたしと話されたその声を見るためにふり向いた
23.幕屋の金の燭台
24.アルファでありオメガ
黙示録1・1−20
序文と挨拶
イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
ことに、彼を突き刺した者どもは。
地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
然り、アーメン。
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。
啓示による黙示録解説
霊的意義
全章の内容
この啓示は主のみから発しており、それは新しいエルサレムである新しい教会の中にいて、主を天地の神として承認する者たちにより受け入れられるものである、主はまた聖言の方面で記されておられる。
各節の内容
スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説/黙示録1章
1節。『イエス・キリストの啓示』は、主御自身とその教会とについて、その教会はその終りではいかようになるか、またそれは後にはいかようになるかについて主から予告された事柄を意味している(2番)。『これは神がその僕たちに示すためにかれに与えられたものである』は、仁慈から発した信仰の中にいる者たちのために、を意味している(3番)。『間もなく起るようになるに違いない事柄』は、教会が死滅しないように、それらが必ず存在するであろう、を意味している(4番)。『かれはその僕ヨハネに、その天使を遣わされることにより表された』は、仁慈とその信仰から生命〔生活〕の善の中にいる者たちに天界を通して主から啓示された事柄を意味している(5番)。
2節。『彼は神の聖言とイエス・キリストの証を証した』は、彼らは心から、引いては光の中に聖言から神的真理〔神の真理〕を受け入れ、主の人間的なもの〔人間性〕が神的なものであることを承認している、を意味している(6番)。『その見たことをことごとく』は、この啓示の中に在る事柄を凡て彼らが明るく示されていることを意味している(7番)。
3節。『幸いなるかな、その予言の言葉を読み、聞き、その中に記されている事柄を守る者たちよ』は、新しいエルサレムの教義に従って生きる者たちが天界の天使たちと交わることを意味している(8番)。『時は近いからである』は、教会の状態は最早それが主と連結し続けることが出来ない底のものになっていることを意味している(9番)。
4節。『ヨハネは七つの教会へ(書き送る)』は、聖言が存在し、聖言によって主が知られているキリスト教世界にいて、教会に近づいている者たち凡てへ、を意味している(10番)。『アジアに在る』は、聖言から発している真理の光にいる者たち凡てへ、を意味している(10番)。『アジアに在る』は、聖言から発している真理の光にいる者たちへ、を意味している(11番)。『あなたに恩寵と平安とが(与えられるように)』は、神的な挨拶を意味している(12番)。『今おられ、前におられ、後に来られる方から』は、永遠で無限であり、エホバであられる主から、を意味している(14番)。
5節。『イエス・キリストから』は神的な人間的なもの〔神的人間性〕を意味している(15番)。『忠実な証人』は、かれは神的真理そのものであられることを意味している(17番)。『地の君』は、かれから教会における善から発した真理はすべて発している、を意味している(18番)。『かれは私たちを愛し、私たちを私たちの罪から洗われる』は、かれが聖言から発したその神的な真理により愛と慈悲から人間を改良し、再生される、を意味している(19番)。
6節。『かれは私たちを王と祭司になされる』は、かれはかれから生まれた者たちを、即ち、再生した者たちを神的諸真理から智恵の中に、神的諸善から愛の中におらせるようにされる、を意味している(20番)。『神とその父とに向かって』は、かくてその神的な知恵とその神的な愛との映像(とされる)ことを意味している(21番)。『かれに代々栄光と力とがありますように』は、かれのみが神的な威厳と神的全能とを永久に持たれる、を意味している(22番)。『アーメン』は、真理から、かくてかれ御自身から発する神的確認を意味している(23番)。
7節。『かれは天の雲と共に来られる』は、主は、教会の終りに、聖言の文字の意義の中に御自身を啓示され、その霊的な意義を開かれるであろう、を意味している(24番)。『凡ての目はかれを見るであろう』は、情愛から神的真理を理解する者たちは凡て主を承認するであろう、を意味している(25番)。『かれを刺した者ら』は、教会内で誤謬にいる者らもまた認めるであろう、を意味している(26番)。『地の諸族は凡て泣き叫ぶであろう』は、このことは教会内に最早いかなる善も真理も存在しなくなる時起るであろう、を意味している(27番)。『しかし、アーメン』は、それが起るであろうという神的な確認を意味する(28番)。
8節。『わたしはアルファであり、オメガであり、初めであり、終わりである』は、かれは最初のものから究極的なものに至るまでも自らによって存在される者であり、唯一者であられ、かれから一切の物が存在しており、かくてかれは愛それ自体であられ、唯一の愛であり、知恵それ自体であられ、唯一の知恵であられ、生命それ自体であられ、かれ自身において唯一の生命であられ、かくて創造者御自身であられ、かれ御自身から創造され、救われ、明るくされる唯一人の方であられ、かくて天界と教会の一切のものにおける一切であられる、を意味している(29番)。『今おられ、前におられ、後に来られる主が言われる』は、かれが永遠であり、無限であり、エホバであられる、を意味している(30番)。『全能者』は、かれはかれ自身から存在し、生き、力を持っておられ、一切の物を最初のものから究極的なものによって支配されておられる、を意味している(31番)。
9節。『あなたの兄弟であり、仲間である私、ヨハネ』は、仁慈の善の中におり、そこから信仰の諸真理の中にいる者たちを意味している(32番)。『苦しみにおける、イエス・キリストの王国における(またイエス・キリストを)耐え忍んで期待している』は、彼らは教会の中で悪と誤謬とにとりつかれて悩まされているが、しかしこれらは主が来られる時、主により除かれることが出来る、を意味している(33番)。『私はパトモスと言われる島にいた』は、彼が、その中で(主から)明るくされることの出来た状態と所とを意味している(34番)。『神の聖言とイエス・キリストの証とのために』は、聖言から発している神的真理が心から、引いては光の中に受け入れられて、主の人間的なものが神的なものであることが承認されるために、を意味している(35番)。
10節。『私は主の日に霊の中にいるようになった』は、その当時の神的流入から発した霊的状態を意味している(36番)。『そして私は私の後にラッパのような大きな声を聞いた』は、天界から啓示された神的真理を明白に認識することを意味している(37番)。
11節。『曰くわたしはアルファであり、オメガであり、最初のものであり、最後のものである』はかれは最初のものから究極的なものに至るまでも、自存される方であり、また唯一者であられ、かれから一切の物が存在しており、更に前に述べたような方である、を意味している(38番)。〔『あなたが書物に書くことを』は、それらは子孫に啓示されるために、を意味する(39番)。〕『アジアに在る諸教会へ送りなさい』は、キリスト教世界にいて、聖言から真理の光の中にいる者たちのために、を意味している(40番)。『エペソに、スミルナに、ペルガモに、テヤテラに、サルデスに、フィラデルフィアに、ラオデケヤに』は、特に各自が受入れる状態に従って、を意味している(41番)。
12節。『私は私と話されている声を見ようとして振り向いた』は、生命の善の中にいる者たちが自らを主に向ける時、その状態が聖言の真理の認識の方面で転倒することを意味している(42番)。『振り向くと私は七つの金の燭台を見た』は、主から聖言により明らかにされた新しい教会を意味している(43番)。
13節。『その七つの燭台の最中に人の子に似た方』は、その教会が発生してくる源泉であられる聖言の方面の主を意味している(44番)。『足までも垂れた上着を着て』は、神的真理であるところの発出しつつある神的なものを意味している(45番)。
14節。『その頭と髪は雪のように、羊毛のように白かった』は、最初のものと究極的なものにおける神的知恵の神的愛を意味している(47番)。『その目は火焔のようであった』は神的愛の神的知恵を意味している(48番)。
15節。『その足は炉の中に熱し輝いている精錬された真鍮のようであった』は自然的な神的善を意味している(49番)。『その声は多くの水の声のようであった』は、自然的な神的真理を意味している(50番)。
16節。『その右手に七つの星を持ち』は主から発しているところの聖言の善と真理との凡ゆる知識を意味している(51番)。『その口から鋭い両刃の剣が出ていた』は、主により聖言を通して、またそこから生れた教義を通して誤謬を消散させることを意味している(52番)。『その顔は太陽が力をもって輝いているようであった』は、主御自身であり、主から発出している神的愛と神的知恵とを意味している(53番)。
17節。『私はかれを見た時、死んだようになって、その足下に倒れた』は、主のこうした現存のため、彼自身の生命が衰えたことを意味している(54番)。『かれは私にその右手を置かれ』は、その時主から吹き込まれた生命を意味している(55番)。『私に言われた、恐れてはならない』は、生き返り、またその時最も深い卑下(の状態)から崇拝することを意味している(56番)。『わたしは最初のものであり、最後のものである』は、かれは永遠なる者、無限なる者であられ、かくて唯一の神であられることを意味している(57番)。
18節。『生きている者である』は、かれのみが生命であられ、かれのみから一切の生命が発している、を意味している(58番)。『死んだ』は、かれは教会では無視され、その神的な人間的なものは承認されなかったことを意味している(59番)。『見よ、わたしは代々生きている』は、かれは永遠の生命であられることを意味している(60番)。『アーメン』は、それが真理であるという神的な確認を意味している(61番)。『わたしは地獄と死の鍵を持っている』は、かれのみが救われることが出来ることを意味している(62番)。
19節『あなたが見た事柄を、今在る事柄を、今後起こる事柄を書きなさい』は、今啓示された事柄が全て子孫のためになるために、を意味している(63番)。
20節。『あなたがわたしの右手に見た七つの星と七つの金の燭台との秘義』は、新しい天界と新しい教会とについて示された幻における秘義を意味している(64番)。『七つの星は七つの教会の天使である』は、新しい天界であるところの、諸天界における新しい教会を意味している(65番)。『あなたが見た七つの燭台は七つの教会である』は、主から出て新しい天界から降って来る新しいエルサレムである地上の新しい教会を意味している。
1.イエス・キリストの啓示
スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説2
『イエス・キリストの啓示』は、主御自身とその教会とにかかわる主の予告を、即ち、その教会は地上のみでなく、天界で、その終わりはいかようになるか、また後にはいかようになるかについて主が予告されたことを意味している。「イエス・キリストの啓示」により凡ての予告が意味されており、それらは主から来ているため、イエス・キリストの啓示と呼ばれている。
黙示録では、これまでたれかが信じてきたように、教会が次々に変わって行く状態が取り扱われてはおらず、まして幾多の王国が次々に変わって行く状態は取り扱われてはいないのであって、そこでは始めから終わりまで諸天界と地上の教会の最後の状態が取り扱われ、次に最後の審判が取り扱われ、その後で新しいエルサレムである新しい教会が取り扱われているのである。この新しい教会が本書の目的であることは明白であり、それでそれに先立っている事柄は教会の状態に言及しているのである。即ち、新しい教会の直前の教会の性質に言及していることである。
2.僕たち
スウェーデンボルグ/啓示による黙示録解説3
「僕たち」・・・「ここでは仁慈から発した信仰の中にいる者たちが意味されており、彼らにこれらの事柄が明らかにされたのである。なぜなら彼らはそれらを理解して、受けるからである。」
・「善から発した真理の中にいる者たち」、「かくてまた、愛から発した知恵の中にいる者たち」
・「仁慈から派生した信仰の中にいる者たち」
・「純粋な霊的意義」・・・「僕により真理が意味されている」
「真理は善を教えることによって善に仕えているため」である。
「元来、僕により仕えるものが、または仕える彼が、または仕えるところのものが意味されている」
「この意義で預言者が神の僕と呼ばれているのみでなく、主もその人間的なものの方面では僕と呼ばれ給うている。」
「エホバはその僕たちを、その預言者たちをあなたら凡てに遣わされた(エレ25・4)。」
「かれはその僕である預言者たちにその秘密を啓示される(アモス3・7)。」
「かれはその僕である預言者たちの手によりあなたらの前に置かれた(ダニエル9・10)。」
「そしてモーセは『エホバの僕』と呼ばれている(マラキ4・4)。」
その理由は、「預言者」・・・「教義の真理」を意味
「主は聖言でもまたある神的真理そのものであられ、そのため御自身が預言者と呼ばれ、世では教え仕えられ、また教えることによって永遠に凡ての者に仕えられるため、主もまた多くのところで、エホバの僕と呼ばれ給うている」
「かれはその魂の労苦から生まれたものを見て、満足されるであろう、わたしの正しい僕はその知識によって多くの者を義とするであろう(イザヤ53・11)。」
「見よ、わたしの僕は慎重に事を行うであろう、彼は賛えられ、誉めそやされ、大いに高められるであろう(イザヤ52・13)。」
「見よ、わたしのよりかかるわたしの僕を、わたしの魂の喜ぶわたしの選んだ者を、わたしは彼の上にわたしの霊を置いた(イザヤ42・1,19)。」
「同じくダビデも、そのダビデにより主が意味されているところでは、僕と呼ばれている」
「エホバ、わたしは彼らの神となり、わたしの僕ダビデは彼らの中で君となるであろう(エゼ34・24)。」
「わたしの僕、ダビデは彼らを統べる王となり、彼ら凡ての者に一人の羊飼いがあるであろう(エザ37・24)。」
「わたしは、わたしのために、わたしの僕ダビデのために、この都を守って、それを支えよう(イザヤ37・35)。」
同様に詩篇78・70−72、89・3、4・20
「たれでもあなたたちの中で偉大になりたいと願う者は、あなたらに仕える者となりなさい。たれでも最初のものとなりたいと願う者は、あなたらの僕となりなさい。人の子も仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである」(マタイ20・25−28、マルコ10・42−44、ルカ22・27、同じくルカ12・37)。
神的真理を教える者
このことを主が言われるのは、僕と仕える者により、教えることによって僕となり、仕える者が意味され、人物から抽象して、主御自身であった神的真理が意味されているためである。それで僕により神的真理を教える者が意味される以上、黙示録のこの所の僕たちにより善から発した真理の中に、または仁慈から発した信仰の中にいる者たちが意味されていることは明白である。なぜならこれらの者は主から教えることが出来るからであり、即ち、主は彼らを通して教え、仕えられることが出来るからである。この意味で彼らはマタイ伝で僕たちと呼ばれている―
「代の終わりに、主がその家族の者にその食物を時に及んで与えるために、その家族の者の上に立てられる忠実で、思慮のある僕はたれであろうか。幸いなるかな、主が来られる時、そのように行っているのを主から見られるその僕よ」(マタイ24・45−46)
「幸いなるかな、主が来られる時、目を見はっているのを主から見られる僕たちよ。まことにあなたたちに言う、かれは自分に帯して、彼らを(椅子に)寄り掛からせ、自ら近づいてきて、彼らに仕えるであろう」(ルカ12・37)。
3.すぐに
啓示による黙示録解説4
「間もなく」「直ぐに、速やかに」・・・・「必ず起こること」
間もなく起こるようになることにより、黙示録に予告されている事柄が直ぐに、速やかに起こることが意味されているのではなく、それらが必ず起こることが、もし起こらないなら、教会は死滅しなくてはならないことが意味されている。
4.天使
啓示による黙示録解説5.
「天使」・・・天使たちの天界、最高の意義では主。
天使は人間とは天界から分離しては決して話さない。なぜなら各々の者は、その交わりから、たとえその天使はそのことに気づいてはいなくとも、話しているから。
天界は主の眼前には一人の人間として存在されており、その霊魂は主御自身であられるからであり、それで主は、天界を通して人間と話されるが、それは(丁度)人間がその霊魂からその身体を通して他の者と話すさまに似ているのである。
「かれはその僕にその天使をつかわされることによって表わされたものである」
・・・仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たちに天界を通して主から啓示された事柄を意味。
・その天使はその天使自身からヨハネと話したのではなく、主がその天使を通して天界を媒介として話された。
それらは仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たちに啓示された。
なぜならその者たちが「ヨハネ」によって意味されているから。
「十二人の弟子」または「使徒」により、善から諸真理の中に在る教会に属した者たちが凡て意味されている。抽象的な意義では、教会の凡ゆる事柄。
「ペテロ」・・・信仰の中にいる凡ての者、抽象的には信仰が意味されている。
「ヤコブ」・・・仁慈そのもの。
「ヨハネ」・・・仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち、抽象的には、そこから生まれてくる生命の善そのもの。
仁慈とその信仰から発した生命の善が教会を形作っているため、それで使徒ヨハネを通して、教会の状態にかかわるアルカナが啓示されたのである。
5.ヨハネ
啓示による黙示録解説6
黙示録1・2「彼(ヨハネ)は神の聖言とイエス・キリストの証を証しした。」
ヨハネにより仁慈とその信仰から生命の善の中にいる者たち凡てが意味されているため、それで霊的意義ではこれら凡ての者が意味されている。聖言の霊的意義の中にいる天使たちは、聖言に記されている人物の名は全く知っておらず、ただその人物が表象し、そこから意味しているところのもののみしか知っていないのであり、それはヨハネではなくて、生命の善であり、または行為における善であり、従ってその善の中にいる凡ての者の集合体である。これらの者が「証する」のである。即ち、聖言の諸真理を、特に主の人間的なものは神的なものであるというその聖言の真理を見、承認し、心から光の中に受け入れ、告白するのである。
6.予言
啓示による黙示録解説8
・「予言の言葉」・・・新しいエルサレムの教義
・「予言者」・・・聖言から引き出された教会の教義
・「代の終わりには多くの偽予言者が起こって、多くの者をたぶらかすであろう。偽キリストと偽予言者が起こって、できるなら、選ばれた者たちをもあやまらせるであろう。」(マタイ24・11,24)
「代の終わり」・・教会の最後の時、
「偽予言者」・・・教義上のいくたの誤謬
「予言者の名において予言者を受ける者は予言者の報いを受け、正しい人の名において正しい人を受ける者は正しい人の報いを受けるであろう。」(マタイ10・41)
「予言者の名において予言者を受けること」・・・教義の真理をそれが真理であるために受けること
「正しい人の名において正しい人を受けること」・・・善を善のために受けること
「報いを受けること」・・・受けることに応じて救われること
「ああ天よ、聖い使徒と予言者たちよ、歓びおどれ、神はあなたらのさばきを行われたからである。」(黙示録18・20)
・・・報いは予言者のみに与えられはしないし、使徒と予言者のみが最後の審判に歓びおどりはしないで、教義の諸真理を受け入れて、それらにしたがって生きたものが凡てそのとき歓びおどることは明白である。
7.時は近いからである
啓示による黙示録解説9
「時は近いからである」は、教会の状態がもはや教会が、その主との連結の方面でもちこたえることが出来ない程にもなっていることを示している。(教会の状態がもはや教会と主との連結が不可能となった程にも破壊されているの意味)
主との連結を生み出し、そこから救いを生み出すところの二つの本質的なものが、即ち、「一人の神を承認すること」と「生活の悔改め」が在るが、しかし現今では、一人の神を承認することに代わって三人の神が承認され、生活[生命]の悔改めに代わって、自分は罪人であるという口先のみの悔改めが在って、この二つによっては(主との)いかような連結もなく、それでこの二つの本質的なものを承認する新しい教会が起こらない限り、たれ一人救われることは出来ない。
こうした危険のために、その時間は、マタイ伝の御言葉に従って、主により短縮されている―
なぜならその時世の初めから今の時まで無かったような、またこの後も無いような大いなる苦悩が臨むからである。まことに、その日が短くされなくては、たれ一人救われはしないであろう。(マタイ24・21、22)
8.七つの教会
啓示による黙示録解説10
七つの教会・・・聖言が存在して、聖言により主が知られている基督教世界の中にいる凡ゆる者が意味されている。これらの者は、もし聖言の中の主の教えに従って生きるなら、教会そのものを作るのである。
七・・・凡ゆる事柄と凡て。完全なもの。聖いもの。充分なもの。対立した意義では、凡て汚れたもの。
「エホバの御言葉は純粋な御言葉であり、七度炉で精錬した銀である」(詩篇12・6)
「飢えた者もなくなり、うまずめは七人を生んだが、多くの子供をもっている女には欠けている」(サムエル記前2・5)
うまずめ・・・聖言をもたなかった異邦人。
多くの子供たちをもっている女・・・聖言をもった教会
「汚れた霊は自分自身よりもさらに悪い七つの霊をつれてくるであろう」(マタイ12・45)
ここには冒涜が記されており、その連れて帰ってくる「七つの霊」により悪の凡ゆる誤謬が意味され、かくて善と真理との完全な消滅が意味されている。
「竜の七つの頭」と「その頭の上の七つのかむりもの」により(黙示録12・3)、凡ゆる善と真理との冒涜が意味されている。
9.アジアに在るところの
啓示による黙示録解説11
アジアに在るところの・・・聖言から発した真理の光の中にいる者たち凡て。
聖言から発している真理の光の中にいる者たちが「アジア」により意味されている理由は、最古代教会が、その後では、古代教会が、その次にはイスラエル教会がアジアに在ったためであり、また古代聖言が、後にはイスラエルの聖言が彼らのもとに在って、真理の光は凡て聖言から発しているためである。アジアの世界に古代の諸教会が在って、彼らは後には失われてしまった聖言を持っていたこと、また最後には今日でも現存している聖言を持っていたことについては「聖書にかかわる新しいエルサレムの教義」(101−103)を参照。
イスラエルの聖言以前にアジアに存在したこの古代聖言については、以下のニュースを述べておくことが適当である、即ち、それは今も大ダッタン地帯(Great Tartary)にいる人たちの間に保存されているのである。私はそこから来た霊たちと天使たちと霊界で話したのであるが、彼らは自分たちは一種の聖言を持っていて、それは全く相応したものから成り立っている、と言ったのである。彼らは、それにはまたヨシュア記(10・12、13)とサムエル記後書(1・17、18)に記されているヤシャルの書が含まれていると言い、また自分たちのもとにはモーセの記した書物、例えば民数記略(21・14、15、27−30)のエホバの戦いと予言的なものが在るとも言った。(中略)、支那にそれを(古代聖言を)探してみられよ、恐らくあなた方はそれをそこでダッタン人の間に見つけられるであろう。
10.今おられ、前におられ、後に来られる方から
啓示による黙示録解説13
今おられ、前におられ、後に来られる方から・・・永遠であられ、無限であられ、エホバであられる主から。
「わたしはアルファであり、オメガであり、最初のものであり、最後のものである」(黙示録1・11−13)
「わたしは最初のものであり、最後のものである」(黙示録1・17)
「イスラエルの王、エホバ、万軍のエホバ、その贖い主はこのように言われる、わたしは最初のものである、わたしは最後のものである、わたしの他に神はいない」(イザヤ44・6)
最初の者であり、最後の者であられる者は、今おられ、前におられ、後に来られる者である。このこともエホバにより意味されている。なぜならエホバの名は存在するを意味しており、存在されている者は、またエッセ[存在]そのものであられる者は、また前におられ、後に来られる方であるから。なぜならその方の中には過去も将来も現在であるからである。そこからかれは時間がなくて永遠であられ、場所がなくて無限であられる。
11.王座の前に在る七つの霊から
啓示による黙示録解説14
王座の前に在る七つの霊から・・・主がその神的真理の中に存在され、その神的真理が受け入れられている全天界から。
七つの霊・・・神的真理の中にいる凡ての者。抽象的な意義では、神的真理そのもの。
七・・・凡て。凡てのもの。
王座・・・全天界。
12.イエス・キリストから
啓示による黙示録解説15
イエス・キリストから・・・神的な人間的なもの。
聖言の「イエス・キリスト」により、また「子羊」により神的な人間的なものの方面の主が意味されている。
13.忠実な証人
啓示による黙示録解説16
忠実な証人・・・主は神的真理そのものであられること。
証人・・・真理について述べられ、真理は真理自身について証し、かくて神的真理そのものであられ、聖言であられる主について証しする。
14.死んだ者たちから最初に生まれた方
啓示による黙示録解説17
死んだ者たちから最初に生まれた方・・・主は神的善そのものであられること。
最初に生まれた者・・・教会の凡ゆるものの源泉である、最初の主要なもの。長子。
それは多くの者から、教義における、また信仰における真理であると信じられたが、そうではなく、それは生命[生活]の善であるところの、行為と業における真理である。
教義における、また信仰における真理が教会の主要なものであり、それで最初に生まれたものであると信じた者の見解・・・・・
かれらがそのことを信じたのは、それが最初に学ばれるためであり、また教会は真理が生命のものとならない中は、真理によっては、教会とはならないものの、真理によって教会となるから。
真理が生命のものとならない中は真理は単に理解の思考の中に在るのみであり、意志の行為の中にはない。行為または業における真理でない真理は、生きてはいないのである。それはおびただしい枝や葉はあるが、果実は実っていない木のようなものにすぎない。
またそれは用に応用されない知識のようなものであり、人が住む家を上に建てる土台のようなものである。これらの物は時間では最初のものであるが、目的では最初のものではない。そして目的で最初のものが主要なものである。なぜなら家に住むことが目的における最初のものであるが、しかし土台は時間における最初のものであり、用もまた目的における最初のものであって、知識は時間における最初のものであり、同様に、木が植えられる時、目的における最初のものは果実であるが、しかし時間における最初のものは枝と葉である。理解も同じであって、それは人間の中に最初に形作られはするが、しかしそれは人間がその理解をもって認めるものを行うためであり、でないなら、理解は上手に教えはするが、邪悪な生活をしている説教家のようなものである。さらに真理は凡て内なる人の中に蒔かれて、外なる人の中に根を張るものであり、それで、蒔かれた真理が外なる人の中に根を張らない限り―そのことは実践することによって行われるが―それは土の中に植えられないで、土の上に植えられた木のようなものになり、太陽の熱にさらされると忽ち枯死してしまうのである。
真理を実践した人間は死後もこの根を携えて行くが、しかし単に知って、それを信仰の中に承認したに過ぎない人間はそうではない。さて古代人の多くの者は時間の中で最初のものを目的の中でもまた最初のものに、即ち、主要なものにしたため、それで彼らは最初に生まれたものは教義における真理と教会における信仰を意味していると言って、彼が外面的には最初に生まれたものではあるが、実質的には最初に生まれたものではないことを知らなかったのである。
しかし教義における、また信仰における真理を主要なものとしている者らは、その真理の中には何ら行為または業はなく、または生命は何ら存在していないため、罪に定められるのである。それでアダムとエバの最初に生まれた者[長子]であったカインは罪に定められたのである。彼により教義における、信仰における真理が意味されていることは「神的摂理にかかわる天使の知恵」(242)に見ることが出来よう。それで、またヤコブの長子であったルベンもその父により罪に定められ(創世記49・3,4)その出生の権利は彼から取り去られたのである(歴代上5・1)。
「ルベン」によりその霊的意義では教義における、また信仰における真理が意味されていることは間もなく認められるであろう。「エジプトの長子たち」により―彼らは罪に定められたため、凡て打たれたが―その霊的意義では生命の善から分離した教義と信仰における真理以外の何一つ意味されてはおらず、その真理はそれ自身では死んだものである。
ダニエル書とマタイ伝の「山羊」によっても生命[生活]から分離した信仰の中にいる者ら以外の者は意味されていないのであり、彼らについては「信仰にかかわる新しいエルサレムの教義」(61−68)を参照されたい。(中略)
これらの僅かの事柄から教義と信仰における真理は教会の最初に生まれた者[長子]ではなくて、生命の善であるところの、行為または業における真理がそれであることが明らかとなるであろう。なぜなら真理が生命のものとならない中は教会は人間のもとには存在しないのであり、真理が生命のものとなったとき、それは善となるからである。(中略)
ヨハネは生命の善を表象し、ペテロは信仰の真理を表象するため、それで―
ヨハネは主の胸によりかかり、イエスに従ったが、しかしペテロは従わなかった(ヨハネ21・18−21)。
主はまたヨハネについて「彼は主の来られるまで止まらなくてはならない」と言われ(22,23節)、かくて主が来られることである今日までも止まらなくてはならないと言われた。それで生命[生活]の善は新しいエルサレムである主の教会に属する者たちのために今教えられるのである。
約言すると、真理が先ず善から生み出すものが、かくて理解が意志から生み出すものが主要なものである。なぜならそれは爾余のものが発出してくる源泉となる種子として存在するからである。主については、主は死んだ者らから最初に生まれた方である。なぜなら主は、その人間的な方面では、神的善に結合した真理そのものであられ、主から凡ての人間は―彼らは彼ら自身では死んでいるのであるが―生きるからである。そのことがダビデの書に意味されている―
わたしは彼を、その最初に生まれた者を[長子を]、地の王たちよりも高くしよう(詩篇89・27)。
これは主の人間的なものにかかわっている。ここからイスラエルは長子と呼ばれている(出エジプト4・22、23)。
「イスラエル」により行為における真理が意味され、「ヤコブ」により教義における真理が意味されており、後のもののみではそこから教会は生まれないため、それでヤコブはイスラエルと名づけられたのである。しかし「イスラエル」によってはその最高の意義では主が意味されている。
「長子」のこうした表象のために、凡ゆる長子は、また凡ゆる最初の実はエホバに向かって聖められたのである(出エジプト13・2、12、22・28,29)。「長子」のこうした表象のために、イスラエル教会内の凡ゆる長子に代わってレビ人が取られ、そのことによって彼らはエホバのものとなった、と言われている(民数3・12、13、40−46,18・15−18)。なぜなら「レビ」により、生命の善であるところの、行為における真理が意味されるからであり、それで祭司職はレビの子孫に与えられたのである。そのことは以下に取扱われるであろう。その同じ理由から二倍の分け前の嗣業が長子に与えられて、彼は「力の初め」と呼ばれた(申命記21・15−17)。「長子」が教会の主要なものを意味しているのは、聖言では自然的な出生[自然的な子供たち]によって霊的な出生[霊的な子供たち]が意味され、それで人間の中に最初にそれを[霊的な子供たち]生み出すものが、その「長子」により意味されているためである。なぜなら内なる人の中に身篭った教義の真理が外なる人の中に生まれない中は、人間のもとに教会は存在しないからである。
15.その血
啓示による黙示録解説19
「その血」により、多くの者が信じているような十字架の受苦が意味されてはいないで、主から発している神的真理が意味されている。
16.王、祭司
啓示による黙示録解説20
主は神的知恵から「王」と呼ばれ、神的愛から「祭司」と呼ばれ給うており、それで主から知恵の中にいる者たちは「王の子」とも「王」とも呼ばれ、主から愛の中にいる者たちは「仕える者」、「祭司」と呼ばれている。
互いに戦いを交えた「南の王」と「北の王」によっても王が意味されているのではなく(ダニエル11・1以下)、「南の王」により真理の中にいる者たちが意味され、「北の王」により誤謬の中にいる者らが意味されているのである。
「王」により―その王に主が主から知恵の中にいる者たちをなされるが―彼らが王となることが意味されてはいないで、彼らが賢明になることが意味されていることが明白である。
主が「王」により真理を意味されたことは、ピラトに対する主御自身の御言葉から明白である―
ピラトはかれに言った、それではあなたは王ではないか。イエスは答えられた、あなたはわたしが王であると言った。この為にわたしは生まれ、またこの為にわたしは世に来たのである、即ち、真理について証をするためである、凡て真理のものである者はわたしの声を聞く。ピラトはかれに言う、真理とは何ですか(ヨハネ18・37,38)。
「真理について証すること」は、主御自身が真理であることを意味している。そこから主は御自身を「王」と呼ばれたために、ピラトは「真理とは何か」、即ち、真理は王ですか、と言ったのである。
17.神と父
啓示による黙示録解説21
「神とその父に向かって」は、かくて主の神的知恵とその神的愛との映像とされることを意味している。「神と父」により、その霊的な意義では、二つの人格が意味されてはおらず、「神」により知恵の方面の神的なものが、「父」により愛の方面の神的なものが意味されている。
なぜなら主の中には二つのものが即ち、神的な知恵と愛とが、または神的な真理と神的な善とが在って、この二つは旧約聖書では「神」と「エホバ」により、ここでは「神」と「父」により意味されているからである。さて主はわたしと父とは一つであり、わたしは父の中に、父はわたしの中におられると教えられているため(ヨハネ10・30、14・10,11)神と父とにより二人の者が意味されているのではなく、主のみが意味されている。神的なものもまた一つであって、分割することは出来ない。
それ自身では一つのものである神的なものは聖言では色々な名前をもって示されていることは、「主にかかわる新しいエルサレムの教義」の中に見ることが出来よう。主御自身がまた父であられることは以下の所から明白である。イザヤ書には―
わたしたちに男の子が生まれたもうた、わたしたちは息子を与えられた。その御名は驚くべき方、神、英雄、永遠の父、平和の君と呼ばれるであろう(イザヤ9・6)。
エホバよ、あなたは私たちの父、私たちのあがない主、あなたの御名は代から存在している(イザヤ63・16)。
また、ヨハネ伝には―
もしあなたらがわたしを知ったなら、わたしの父をも知ったでしょう、今から後あなたらはかれを知り、かれを見ている。ピリポはかれに言う、主よ、父を私たちに示してください。イエスは彼に言われる、わたしを見た者は父を見ている、だからどうしてあなたは、私たちに父を示してください、と言うのですか。わたしを信じなさい、わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる(ヨハネ14・7,8,9,11)。
18.かれに代々栄光と力とがありますように
啓示による黙示録解説22
かれにのみ永遠に神的な威厳と神的な全能とが属していることを意味している。
栄光・・・神的な威厳。主の神的な知恵について。
力・・・・神的な全能。主の神的な愛について。
代々・・・永遠。
19.アーメン
啓示による黙示録解説23
アーメン・・・真理からの、かくて主御自身からの神的な確認。
「アーメン」は真理を意味しており、主は真理それ自身であられたため、主は再三、「アーメン[真に]、わたしはあなたたちに言う」と言われた。(例えばマタイ5・18、26、6・16、10・23、42、後略)
黙示録の以下の記事には―
これらの事をアーメン[真の者]、忠実で、真の証人が言われる(黙示録3・14)
即ち、主が言われるのである。主は真理そのものであられることを主御自身がヨハネ14・6,17・19に教えられている。
20.兄弟、仲間
啓示による黙示録解説32
兄弟・・・仁慈の善の中にいる者
仲間・・・信仰の諸真理の中にいる者
21.霊の中に
啓示による黙示録解説36
これらの事柄から『霊の中に』いることは『幻の中に』いることであることが明白であって、そのことは人間の霊の視覚が開くことにより行われるのであり、それが開かれると、霊界に存在する物は自然界に存在する物が身体の目の前に現れると同じ明白さをもって現れるのである。私がそれがそうであることを多年の経験から証することが出来る。弟子たちが主をその復活の後に眺めた時も、彼らはその状態にいたのである。それで『彼らの目が開かれた』と言われている(ルカ24・30,31)。アブラハムも、彼が三人の天使たちを見て、これと話した時も同じような状態にいたのである。ハガルや、ギデオンや、ヨシュアや、その他の者たちがエホバの天使たちを見た時もそうだったのであり、同じくエリシャの若者が山が戦車と火の馬とで満ちてエリシャを取り巻いているのを見た時もそうだったのである。なぜなら―
エリシャは祈って、言った、エホバよ、願わくは、彼の目を開いて、見させてください、と。するとエホバはその若者の目を開かれた、彼は見た(列王記下6・17)。
しかし聖言については、それは霊の状態の中では、または幻の中には啓示されなかったのであり、予言者たちに主により生きた声で口授されたのである、それで彼らはそれを聖霊から話したとは何処にも言われておらず、エホバから話したと言われている。「主にかかわる新しいエルサレムの教義」(53番)を参照。
22.私は私と話されたその声を見るために振り向いた
啓示による黙示録解説42
12節。「私は私と話されたその声を見るために振り向いた」は、生命の善にいる者たちが主に自分自身を向ける時、聖言の真理の認識の方面で、その者たちの状態が逆転することを意味している。ヨハネは自分の後に声を聞いたと言い(10節)、今、自分はその声を見るために振り向いたと言い、再び、振り向くと、七つの燭台を見たと言っており、このことから、彼は後ろから声を聞き、それが何処から発しているかを見るため、振り向いたことが明白であり、このことの中に秘義があることは明白である。
その秘義は、人間は自分自身を主に向け、主を天と地の神として承認しない中は、聖言の中に神的真理[神の真理]を見ることが出来ないということである。その理由は、神は人格においても、本質において一つであられ、その中に三一性が在り、神は主であられるということである。それで三人格の単一性を承認している者は第一次的には父を仰いでおり、その中には聖霊を仰いでいる者もいるが、主を仰ぐ者はめったにおらず、例え主を仰ぐにしても、主の人間的なものを普通の人間のそれとしか考えていない。人間がこうしたことを行う時は、人間は決して聖言を明らかにされることは出来ない、なぜなら主は聖言であられるからである、なぜならそれは主から発して、主にかかわるものであるから。それで主のみに近づかない者は主と主の聖言を自分の後ろに見ていて、自分の前には見ていないのであり、または後ろに見ていて、前面には見ていないのである。これは以下の言葉、即ち、『ヨハネは自分の後ろに声を聞いた、彼はその声を見るために振り向いた、振り向くと、七つの金の燭台を見、その真中に人の子を見た』の中に隠れている秘義である、なぜなら彼の聞いたその声は主であられる人の子から来たからである。主のみが天と地の神であられることを主は今明らかな声で教えておられる、なぜなら主は以下のように言われているから、
わたしはアルファとオメガであり、初めと終わりであると、今おられ、昔おられ、後に来られる主は言われる(8節)
またここには―
わたしはアルファとオメガであり、最初のものであり、最後のものである(11節)。
またその後には―
わたしは最初のものであり、最後のものである(17節、2・8)。
『声』により、それが主から発している時は、神の真理が意味されることは、前に見ることが出来よう(37番)。『ヨハネ』により、生命の善の中にいる教会の者たちが意味されている(5,6番)。これらの事柄から、以下の言葉、即ち
私は私と話されるその声を見るために振り返った
により、生命の善の中にいる者たちが主に自分自身を向ける時、聖言の真理の認識の方面で、その状態が逆転することが意味されていることが明らかとなるであろう。
23.幕屋の金の燭台
啓示による黙示録解説43
幕屋の金の燭台・・・教会が主から明るくされること
ゼカリヤ第4章の「燭台」・・・主により設立される新しい教会
「神の家」、「神殿」・・・教会、最高の意義では主の神的な人間的なもの(ヨハネ2・19−21)
24.アルファでありオメガ
啓示による黙示録解説29
「わたしはアルファであり、オメガであり、初めであり、終りである」は、主は最初のものから究極的なものに至るまでも自己によって存在される方であられ、唯一者であられ、主から凡ゆる物が存在しており、かくて主は愛そのものであられ、唯一の愛であられ、知恵そのものであられ、唯一の知恵であられ、生命それ自体であられ、御自身において唯一の生命であられ、かくて創造者御自身であられ、唯一の創造者であられ、救い主であられ、主御自身から明るくされる方であり、かくて天界と教会との凡ゆるものにおける凡ゆるものであられる、を意味している。
(中略)
主は『アルファとオメガ』と呼ばれたもうのは、アルファはギリシャ語のイロハ文字の最初の文字であり、オメガはその最後の文字であって、それでそれは凡ゆるものの総合体を意味しているためである。