宮仕え

 

 

天界の秘義5081

 

「その二人の宮仕えに対し」。これはそれがそれ自身を両方の種類の身体の感覚的な物からそむけたことを意味していることは、ここでは給仕役と調理役である『宮仕え』の意義から明白であり、それは両方の種類の感覚的な物である(その感覚的な物については前の5977、5078番を参照)。身体の感覚的な物は、すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚は、内的な人に対してはいわば宮仕えのようなものであり、その内的な人はそれらの主人、主である、なぜならそれらはかれに仕えており、かくてかれは見える世界と人間社会に在る事物から経験の教えの中へ入り、このようにして理知と知恵とを得ることができるからである。なぜなら人間はいかような知識の中へも生まれておらず、ましていかような理知または知恵の中へも生まれてはおらず、ただそれらのものを受け入れて、それらのものにしみこむようになる能力の中へ生まれているにすぎないからである。そのことは二つの道により、すなわち、内なる道と外なる道とにより行われている。内なる道により神的なものが流れ入っており、外なる道により世のものであるものが流れ入っている。これらのものは人間の中に出会っていて、人間は自分自身が神的なものにより明るくされることに甘んじるに応じて、知恵の中へ入ってくるのである。外なる道により流れ入る物は身体の感覚的な物を通して流れ入っているが、しかしそれは決してそれ自身から流れ入るのではなく、内なる人により呼び出されて、神的なものから内なる道により流れ入ってくる天的なものと霊的なものとを受ける面として役立っているのである。このことから身体の感覚的な物は宮廷の宮仕えのようなものであることが明白である。全般的に、外的な物は凡て内的なものに対しては仕える者である。霊的な人に対しては自然的な人全体はそれ以外の何ものでもない。