蜜
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.ヴァッスーラ
4.サンダー・シング
1.聖書
出エジプト記3・7−8
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
申命記6・3
イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。
詩篇19・8−11
主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、目に光を与える。
主への畏れは清く、いつまでも続き
主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
詩篇81・16−17
主を憎む者が主に屈服し
この運命が永劫に続くように。
主は民を最良の小麦で養ってくださる。
「わたしは岩から蜜を滴らせて
あなたを飽かせるであろう。」
詩篇119・103−104
あなたの仰せを味わえば
わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。
あなたの命令から英知を得たわたしは
どのような偽りの道をも憎みます。
エゼキエル3・1−3
彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
エゼキエル20・6
その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。
黙示録10・8−11
すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義195
最古代の人々は人間の中の凡ての物を獣と鳥にたとえたのみでなく、それをそのように名づけもしたが、こうした話し方の慣わしは洪水の後の古代教会の中にすら残り、予言者の間に保存されたのである。人間の感覚的なものをかれらは『蛇』と呼んだのは、蛇は地に密着して生活しているように感覚的な物は身体に最も近接している物であるからである。ここからまた感覚の証明に基礎づけられているところの、信仰の諸々の秘義に関わる理論はかれらにより『蛇の毒』と呼ばれ、その理論家自身は『蛇』と呼ばれたのであり、そしてこうした人物は感覚的なものから、すなわち、(地的な、形体的な、世俗的な、自然的な物といった)目に見える物から大いに論じるため、『蛇は畠の凡ての野生の動物の中最も鋭敏であった』と言われている。
[2]同じく詩篇の中にも、理論により人間をたぶらかす[欺く]者を語って―
彼らは蛇のようにその舌を鋭くする、その唇の中には蝮の毒がある(詩篇140・3)
さらに―
彼らは母胎から道に迷い、いつわりを言う。その毒は蛇の毒に似ている、彼らは口ごもる者の声を、呪文を唱える賢い者の声を聞くまいとして耳をふさいでいるつんぼの毒蛇に似ている(詩篇58・3−6)。
その人々は賢い人の語るところを、または賢い者の声を聞こうとさえもしない性格をもっているが、そうした性格の理論はここでは『蛇の毒』と呼ばれている。ここから古代人の間に、『蛇はその耳をふさぐ』ということが諺となったのであった。アモス書には―
人が家に入って、その手を壁にもたせかけて、蛇にかまれるのに似ている。エホバの日は暗黒であって、光はなく、闇でさえあって、その中に輝きはないのではないか(5・19、20)。
『壁の上の手』は自己から由来した力と感覚的な物に対する信頼とを意味しており、そこからここに記されている盲目が発している。
[3]エレミヤ記には―
エジプトの声は蛇のようにすすむであろう、なぜなら彼らは木を切る者のように斧をもって彼女のもとへくるからである。エホバは言われる、彼らはその森を、それが探られないために、切り倒すであろう、なぜなら彼らは蝗よりも増し加わって、数えることもできないからである。エジプトの娘は恥じを受け、北の民の手に渡されるであろう(46・22−24)。
『エジプト』は感覚的な物と記憶知から神的な事柄について論じることを意味している。このような議論は『蛇の声』と呼ばれ、そこから起ってくる盲目は北の民と呼ばれている。ヨブ記に―
彼は毒蛇の毒を吸い、蝮の舌に殺されるであろう。彼は蜂蜜と牛酪の流れる川を、小川を見ないであろう(20・16,17)
『蜂蜜と牛酪の流れる川』は単なる理論家によっては見ることのできない霊的な天的なものであり、理論は『毒蛇の毒』『蝮の舌』と呼ばれている。下記の14、15節の蛇について更に参照されるように。
天界の秘義2184
『バター』は合理的なものの天的のものであり、『ミルク[乳]』はそこから派生している霊的なものであり、『雄牛の息子[子]』はそれに相応した自然的なものであることは、『バター』『ミルク』『雄牛の息子[子]』の意義から明白である。バターについては、それは聖言では天的なものを意味していて、そのことはそのあぶら身[脂肪]から発している。あぶら身[脂肉、脂肪]は天的なものを意味していることは、第一部353番に示されており、『油』はあぶら身[脂肪]であるため、天的なものそれ自身である(886番)。『バター』もまた天的なものであることはイザヤ書に明白である―
見よ、処女は息子を生み、その名をイマヌエルと名づけるであろう、バターと蜜とをかれは食べ、かくしてかれは悪いものを拒み、善いものを選ぶことを知るであろう(7・14、15)。
ここには(『イマヌエル』であられる)主がとり扱われていて、たれでもバターが『バター』により意味されてはおらず、蜜も『蜜』によっても意味されていないで『バター』により主の天的なものが、『蜜』により天的なものから発したものが意味されていることを認めることができよう。
[2]同書に―
そして夥しく乳が作られるため、かれはバターを食べるようになられるであろう、地の真中に残された者はことごとくバターと蜜とを食べるであろう(7・22)
ここには主の王国がとり扱われており、また主の王国の中にいる地上の者がとり扱われているのである。ここの『ミルク[乳]』は霊的な善を、『バター』は天的な善を、『蜜』はそこから派生してくる幸福を意味している。
天界の秘義5620
『蜜』が歓喜を意味しているのは、それが甘美なものであり、自然界における甘美な物は凡て霊界の歓ばしい、楽しいものに相応しているためである。それがその歓喜、すなわち、外的な自然的なものにおける善の真理の歓喜と呼ばれている理由は、真理はことごとく、とくに善の真理はことごとくそれ自身の歓喜を持っているためであるが、しかしそれは真理と善に対する情愛から歓喜を得、かくて用から歓喜をもっているのである。
天界の秘義5620[7]
ダビデの書には―
わたしはかれらを小麦の脂で養い、岩からでる蜜でかれらを飽かせる(詩篇81・16)。
『岩から出る蜜で飽かせること』は信仰の諸真理から発した歓喜で満たすことを意味している。
天界の秘義5620[9]
ここからまたカナンの地は―
乳と蜜との流れる地(民数記13・27、14・8、申命記26・9、15、27・3、エレミヤ記11・5、32・22、エゼキエル記
20・6)と呼ばれたのである。これらの記事の内意では、前に言ったように、『カナンの地』により主の王国が意味されており、『乳が流
れている』は豊かな天的な霊的な事柄を、『蜜が流れている』はそこから生まれてくる幸福と歓喜の豊かなものを意味しているのである。
天界の秘義5620[11]
ヤコブの子孫が荒野でパンとして食べたマナはモーセの書に以下のように記されている―
そのマナはこえんどろの実のようで、白く、その味は蜜でこねた菓子のようであった(出エジプト記16・31)。
マナは主から天界を通して降ってくる真理の神的なものを意味したため、従ってそれは、主御自身がヨハネ伝6・51、58に教えら
ているように、主御自身の神的な人間的なものの方面を意味したのである、なぜなら真理の神的なものがことごとく発してくる源泉は、実
に真理の神的なものがことごとくとり扱っているものは主の神的な人間的なものであり、それがそうであるため、マナの味覚による歓喜と
楽しさの方面が、すなわち、それは『蜜でこねた菓子』のようであったと記されているのである。(味は善の歓喜と真理の楽しさとを意味
していることは前の3502番に見ることができよう)。
天界の秘義6857
「乳と蜜の流れている」。これは、そこから発してくる楽しさと歓喜とを意味していることは以下から明白である、即ち、『乳』の意義は天的な霊的なもの、または善の真理であり(2184番を参照)、それは善の真理を意味しているため、またその楽しさを意味しており―なぜならそれらは連結しているからである―『蜜』の意義は歓喜である(5620番)。前に示したところから(6854番)、『その地から、乳と蜜との流れている、善い広い地へ上らせること』により意味されていることを認めることが出来よう、即ち、主が来られるまで低地の坑の中に抑留されていた者たちは、仁慈の善と信仰の真理とそこから派生する楽しさと歓喜とが存在している天界へその時挙げられるに違いないことを認めることが出来よう。これらの事柄が特にこれらの事柄により意味されているが、全般的には、試練の中に在って、そこから解放されるところの霊的な教会に属した者が凡て意味されているのである。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P193
‘98・8・29
話すときは、我が愛よ、常に論旨を守りなさい。そう、私の言葉をすべて繰り返しながら 言葉かずは少な目に。あなたに与えた宝石を それぞれの心に埋め込みなさい。 私の会話は甘美そのものだと 皆に知らせてほしい。共にいる。 ic
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P8
‘99.1.20
我が聖なる霊は 蜂蜜よりも甘く 蜂の巣からしたたる蜜よりも甘い言葉を耳もとにささやいて あなたや他の者たちを死から甦らせた、そうであろう? 救いは私から来る。 まこと愛する者よ、他の者たちにとって、模範となり 我が霊を愛しなさい その方はいつの日かあなたの労苦に報いて下さる そして・・・すべてを服従させる力を持つと信じる者たちを 恐れないように、私が共にいて あなたの味方ゆえ。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P149
‘00.1.20
さあ 来て 万物の主を祝福しなさい、偉大なわざの造り主は いたるところに存在する。 近づきなさい 私はあなたを護り 支える者。私の言葉に耳傾けるのを承諾した、まこと愛すべき花嫁よ、あなたの主なる、私を 歓ぶように。 調合された香のように 私がその心にとどまり、我が言葉は 食べると口の中で蜂蜜のように 甘く、耳には楽の音と響くように、まこと愛する者よ。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P219
‘02.3.27
私は愛といたわりの冠を あなたに授け、口を蜂蜜(*)で満たし 聖別された香油を全身に注いだであろう?
(*)蜂蜜は「知識」を表すと主が教えて下さいました・・・
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P238
‘02.8.7
蜂蜜よりも甘く 蜂の巣より滴り落ちる蜜よりもなお甘い言葉を 我が聖霊は繰り返し述べてきた。 私は被造界をあまねく聖別し 全宇宙を香気で満たした。 私を知りたいと願う誰であろうと、私に近づいて 霊魂を平静に保ち 心を私と我が掟に接ぎ木するのに必要な恵みを 私の口から吸い込めるようにしてきた・・・
ヴァッスーラ/花むこから花嫁への呼びかけ ヴァッスーラの証しの記録/天使館/P16
1999年8月6日 モルテイ天神 福岡
御父の甘美を皆さまも味わうことができますように。詩篇を読みますと、ダビデが御父の甘美さをいかに味わっていたかがよく分かります。主の甘美が人びとの上にも注がれますようにと、ダビデはある個所で言っているからです。また別の個所では蜂蜜以上に甘いとうたっています。
4.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226
4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。
5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P278
自然界の創作者が書かせたもう一つの書「聖書」は、サンダー・シングにとって、直接の霊感をいただく導入点になった。彼は、聖書を砂糖に比して、「どこをとっても甘味を感じる」と述べている。彼は、特に新約聖書を愛し、中でも、ヨハネ福音書にもっとも深い共感を憶えたという。この福音書は、キリストを歴史的に記述する他の福音書とは異なり、教えの内面を深く掘り下げた、もっとも霊的な書物である。インド人ほど、ヨハネ福音書に深い共感を憶える民族もいないのではないだろうか。