南
天界の秘義1456
9節「アブラムは南の方へ旅をし、行き、旅をした」。『アブラムは旅をし、行き、旅をした』はさらに進んで行かれたことを意味し、『南の方へ』は、いくたの善と真理の中へ、を意味し、かくて、内部の方面では光の中へ、を意味している。
天界の秘義1458
『南の方に』は、いくたの善と真理の中へ、を意味し、引いては内部の方面の光の状態の中へを意味していることは、『南』の意義から明白である。
(中略)
ここの『南』は知識により得られる理知を意味している。これらの知識は天的な霊的な真理であり、それらは天界では同数の光の放射したものであり、前に述べたように、光によりまた目に見えるように示されているのである。主はその人間的な本質の方面においてもまた天界の光そのものとなられるために、今や知識に浸透されねばならなかったため、『アブラムは旅し、南の方へ行き、また旅した』とここに言われているのである。
[2]これが『南』の意義であることは聖言の類似の記事から認めることができよう、例えばイザヤ書には―
わたしは北に向って与えよと言い、南に向っては留めるな、と言おう、息子たちを遠くから、わたしの娘たちを地のはてからつれてきよ(43・6)。
『北』は無知の中にいる者たちを、『南』は知識の中にいる者たちを、『息子』は真理を、『娘』は善を意味している。さらに―
もしあなたがあなたの魂を飢えた者に引き出し、苦しんでいる魂を満足させるなら、あなたの光は暗黒の中にのぼり、あなたの暗闇は真昼のように(または南のように)なるであろう(58・10)。
『飢えた者に魂を引き出し、苦しんでいる魂を満足させる』ことは仁慈の善を全般的に意味しており『光が暗黒の中にのぼること』はかれらが真理の理知を得るであることを意味し、『暗闇が南のようになる』はかれらが善の知恵を持つであろうことを意味し、『南』はその熱から善を意味し、その光から真理を意味している。
[3]エゼキエル書には―
神の幻の中に神はわたしをイスラエルの地につれてこられ、非常に高い山の上に置かれた、その上には南の都の建物のようなものがあった(40・2)。
これは新しいエルサレムまたは主の王国にかかわっており、それは知恵と理知の光の中にあるため、『南』に存在しているのである。ダビデの書には―
エホバはあなたの義を光のように、あなたの公正[審判]を真昼のようにもち出されるであろう(詩篇37・6)。
さらに―
あなたは夜の恐怖のために、昼飛び来る矢のために、暗闇の中を歩む疫病のために、真昼の時に(または南の中で)荒らす破壊のために恐れはしない(四篇1・5,6)。
『南の中で荒らす破壊のために恐れはしないこと』は知識の中にいるものの、それを歪める者らに臨んでくる堕地獄のために恐れはしないことを意味している。エゼキエル書には―
人の子よ、あなたの顔を南の方に向け、南にむかって(あなたの言葉を)洩らし、南の森に予言し、南の森に言いなさい、南から北に至るまで凡ての顔はその中で焼かれるであろうと、(20・46、47)。
『南の森』は真理の光のにいて、それを消滅させる者を意味し、かくて教会の中にいるこのような性格の者らを意味している。
[4]ダニエル書には―
かれらの中の一人から小さい角が一つ突き出して、南の方へ、東の方へ、美の方へ非常に大きくなって、天の軍勢にさえも大きくなった(8・9,10)。
これはいくたの善と真理とに反抗して戦う者らを意味している。エレミア記には―
あなたらの神エホバがそれを暗くされないうちに、あなたらの足が薄明かりの山々の上でつまづかないうちに、かれに栄光を与えよ[栄えをきしまつれ]、あなたは光を求めるが、かれはそれを死の蔭に変えられる、かれはそれを暗闇にされるであろう、南の都は閉じられて、それを開く者は一人もいない(13・16、19)。
『南の都』は真理と善の知識を意味している。オバデア書には―
セパラドにいるエルサレムの捕らわれたものは南の都を嗣ぐであろう(20節)。
『南の都』も同じく真理と善とを意味し、そこからかれらがその相続者となる真理と善そのものを意味しており、主の王国がここにとり扱われている。
天界の秘義3708
「南」の意義は光の中にある真理
同3708(11)
「南の地」は善と真理にかかわる知識の中にいる者たち(1458、3195)。