聖言(みことば)

 

 

1.聖言(みことば)

2.霊的意義が開示されなかった理由

3.詩篇

5.反対の意義がある

6.矛盾した記述

7.初めに言があった(ヨハネ1・1)

8.主はみことば

9.聖言には人間には理解できない無数の事柄が含まれている

10.内意が書物を純粋な聖言に属するものとする唯一のもの・・ヨブ記について

11.聖言は主について書かれている

12.聖言には内意があること

13.聖言の中身は無限

14.主のみから一切を得た

15.聖言は天と地を結合する手段

16.極めて些細な言葉であっても冗漫で空虚なものは一つとしてない

17.霊感を受けている

18.天的なものが語られているときは、霊的なものもまた語られている

19.ついにそれは主の前に人間の映像として示される

20.聖言の文字の意義は主の天的な霊的なものを容れる容器

21.洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会に属している凡ゆる者に啓示された

22.真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され

23.内意を持つため

24.天的な教会が存在した最古代には聖言は存在しなかった

25.彼が途方にくれる所では、他の記事から理解を与えられる

26.その内意の中にいる天使たちの情愛が伝達されるため、彼を感動させるために、聖言が人間に与えられている

27.聖言は同一である

28.再生した人間は、自らが聖言の霊的な意義の中にいて、そこから明るくされていることを知っていない

29.聖言は一点一画もことごとく神的な聖いものである

30.主の神的摂理により、聖言は凡ての点で全く完全に保存されている

31.聖言は(人が)聖言を通して天界と連なり、また連結するためにはそれ以外の文体で記されることは出来なかった

32.聖言は記されたからには、主はそれにより人間に語られる

33.何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです

34.聖言は単に人間のためのみでなく、霊たちと天使たちのためにも記されている

35.聖言の最も内なる、または最高の意義では、主のみが、またその人間的なものの栄化が取扱われている

36.聖言はそれ自身では、主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義以外の何ものでもない

37.モーセが祈願したことは実際モーセの口から発してはいたものの、主から発していた

38.予言者たちは内意の意味していることを何ら認識しなかった

39.「神を見る」ことは聖言の中にのみ起る

40.モーセの五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記前後書、列王記略上下、ダビデの詩篇、予言者イザヤ、エレミア、哀歌、エゼキエル、ダニエル、ホゼア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナオム、ハバクク、ゼパ二ア、ハガイ、ゼカリア、マラキであり、新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書と黙示録

 

 

 

 

 

1.聖言(みことば)

 

 

真の基督教142

 

主は神的真理それ自身であり、主から発するものは凡てその神的真理である

 

 

 

真の基督教189

 

主なるエホバ自身が語り給うものは、それ(神的真理)以外の何ものでもあり得ない

 

 

 

真の基督教347

 

主の御言は凡て真理である。

 

 

 

真の基督教190

 

主の言は真理と生命である。

 

 

 

真の基督教191

 

聖言は人間を主に結合させ、天界を開くものである。

 

 

 

真の基督教209

 

もし彼が(虚偽に取り憑かれた者が)聖言に触れるならば、大爆発が続いて起こり、彼は部屋の一隅に投げ出され、そこにしばらくの間死んだように横たわるのである。

 

 

 

真の基督教261

 

「言は肉体となりて、我らの間に宿りたまへり、我らその栄光を見たり、実に父の独子の栄光にして、恩恵と真理とにて満てり」(ヨハネ1・14)。

 

肉となることは究極的なものに於ける聖言となることである。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/聖書76

 

教会は聖言から発していることは疑いを容れない、なぜなら聖言は神的真理そのものであり(1−4)、教会の教義は聖言から発しており(50−61)、聖言を通して主と連結することが出来るからである(62−69)。しかし聖言の理解[聖言を理解すること]が教会を作るものであるか、否かについては疑いが起こるかもしれない。なぜなら自分たちは聖言を持っており、それを読んでおり、またはそれを説教者から聞いていて、多少その文字の意義を知っているため、自分たちは教会に属していると信じている者らがいるからであるが、それでも聖言のそのことは、またはあのことはいかように理解しなくてはならないかを彼らは知っていないのであって、その中には(そうしたこと)をほとんど意に介しない者もいるのである。それで教会を作るものは聖言ではなくて、それを理解することであり、教会内にいる者たちの間の聖言に対する理解により、教会そのものも左右されることを証明しよう。その証明とは以下のものである。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/聖書77

 

 聖言は人間の中の聖言に対する理解に従って、すなわち、聖言が理解されるままに聖言となっている。もしそれが理解されないなら、聖言は実際聖言と呼ばれはするが、それはその人間のもとでは聖言ではない。聖言はそれに対する理解に従って真理となっている。なぜならそれは誤謬化されるかもしれないため、真理ではないかもしれないからである。聖言はそれに対する理解に従って霊であり、生命である。なぜならその文字は、もし理解されないなら、死んでいるから。そして人間は聖言を理解するに従って真理と生命とを持つように、それに従って信仰と愛とを持つのである。なぜなら真理は信仰に属し、愛は生命に属しているから。さて教会は信仰と愛とによって、また信仰と愛とに従って存在するため、教会は聖言に対する理解を通して、またその理解に従って教会であることが生まれてくる。即ち、もし(それが)純粋な諸真理の中にいるならば高貴な教会であり、もし純粋な諸真理の中にいないなら卑賤な教会であり、もし誤謬化された真理の中にいるなら破壊された教会である。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/聖書78

 

 さらに、主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言によるのである。なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間と謂わば話されるからである。主はまた、聖言も同じく神的真理そのものであるように、神的真理そのものであられる。このことから、人間が聖言を理解するのに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である。なぜならその人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。主は実に人間のもとに聖言を読むことを通して現存されてはいるが、しかし聖言から真理を理解することを通して、またその理解に従って人間と連結されるのであり、そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。

教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会を持った幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかと尋ねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―

 

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17・21)

 

ここでは「神の国」は主を意味し、主から教会を意味している。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/聖書79

 

予言者の書の中で教会が取り扱われている多くの所で、聖言の理解が取り扱われており、聖言が正しく理解されている所以外には教会はなく、教会内にいる者たちにおける聖言の理解のままに教会が左右されることが教えられている。また予言者の書の多くの所にイスラエルとユダヤ民族のもとで教会は、彼らが聖言の意義を誤謬化したことによって、またはその理解によって全く破壊され、絶滅されたものとして記されている。なぜならそれ以外のものは何一つ教会を破壊しないからである。

 

 

 

聖書79 []

 

聖言に対する理解は、その真のものも、誤ったものも、予言者の書には、特にホゼア書には、『エフライム』により記されている。なぜなら聖言には『エフライム』は教会における聖言の理解を意味するからである。それで聖言の理解が教会を作るため、エフライムは

 

いとしい息子、歓ばれる子供(エレミヤ31・20)

 

長子(9節)

 

エホバの頭の力(詩篇60・7,108・8)

 

力あるもの(ゼカリア10・7)

 

弓で満ちている(9・13)

 

と呼ばれ、エフライムの息子たちは、

 

武具をつけ、弓を射る者(詩篇78・9)

 

と呼ばれている。『弓』は聖言から発して誤謬と戦う教義を意味している。それでまた、

 

エフライムはイスラエルの右手の方へ渡されて、祝福された。そしてまたルベンの代わりに受け入れられた(創世記48・5、11−15)

 

それゆえ、

 

エフライムは、その兄弟マナセとともに(その父ヨセフの名の下に)、モーセにより、モーセがイスラエルの子孫を祝福したとき、凡ての者よりもたたえられた(申命記3・13−17)。

 

 

 

聖書79[]

 

聖言に対する理解が破壊されたときの教会の性質もまた予言者の書の中に、特に、ホゼヤ書に、以下の記事に明白なように、『エフライム』により記されている―

イスラエルとエフライムは荒れすたれるであろう、エフライムは審判により圧せられ、砕かれる。わたしはエフライムに対し獅子のようになり、掻き裂いて、立ち去ろう、わたしは連れ去ろう、が、たれ一人救う者はいないであろう(ホゼア5・5、9,11−14)。

ああ、エフライムよ、わたしはあなたに何を為そうか、なぜならあなたの聖さは夜明けの雲のようであり、朝降りる露のように、消え去るであろうから(6・4)。

彼らはエホバの地に住まないであろう、が、エフライムはエジプトに帰り、不潔なものをアッシリアで食べるであろう(9・3)。

 

 

 

聖書79 []

 

『エホバの地』は教会であり、エジプトは自然的な人の記憶知であり、『アッシリア』はそこから派生する理論であり、この二つのものにより聖言は誤って理解されるため、それで『エフライムはエジプトに帰って、アッシリアで不潔なものを食べるであろう』と言われているのである。

 

 

 

聖書79 []

 

さらに―

エフライムは風を食べ、東風の後からついて行く、日々彼は虚偽と荒廃とをつみ重ねる。彼はアッシリアと契約を結び、油がエジプトへ運ばれる(12・1)。

『風を食べる』『東風について行く』『虚偽と荒廃とをつみ重ねる』は、真理を誤謬化し、かくして教会を破壊することである。

 

 

 

聖書79 []

 

それに似たことがまた以下の記事のエフライムの『淫行』により意味されている(なぜなら『淫行』は聖言を、即ち、その純粋な真理を誤って理解することを意味するからである)―

わたしはエフライムが全く淫行を犯し、イスラエルが汚れたことを知っている(ホゼヤ5・3)。

イスラエルの家にわたしは醜いものを見た、そこでエフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された(6・10)。

『イスラエル』は教会そのものであり、『エフライム』は聖言を理解することであって、その理解から、またその理解に従って教会は存在しており、それで『エフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された』と言われている。

 

 

 

仁慈と信仰の教義

天界の秘義10318−10325

 

 

 

天界の秘義10318

 

神的なものから与えられる啓示がなくては、には永遠の生命について何事も知ることは出来ないし、実に神についても何事も知ることは出来ないし、まして、神に対する愛と信仰についても何事も知ることは出来ないのである。何故なら人間は全き無知へ生まれており、後に世に属したものから凡ゆる事柄を学ばなくてはならず、そこからその理解を形作らなくてはならないからである。彼はまた自己への愛と世への愛とに属した凡ゆる悪へ遺伝的に生まれているのである。これらの愛から発した歓喜が絶えず支配しており、神的なものに真向から反したものを刺激している。それでここから人間は人間自身からでは永遠の生命については何事も知ってはおらず、それで人間がこうしたことを知ることの出来る啓示がなくてはならないのである。

 

 

 

天界の秘義10319

 

自己を求め、世を求める愛の悪が永遠の生命の事柄についてこうした無知をもたらしていることは、神がいまし、天界と地獄が存在し、永遠の生命が在り、この生命は愛と信仰との善により獲得しなくてはならないことを教会の中で啓示から知ってはいるものの、そうしたことを、学問がある、なしに拘らず否定してしまう者らから明白である。こうしたことからもし啓示がないなら、いかに大いなる無知が支配しているかが更に明白である。

 

 

 

天界の秘義10320

 

それで人間は死後も生き、しかも永遠に生き、その人間の愛と信仰とに順応して生命が彼を待っているため、神的なもの[神]は人類に対する愛から、その生命へ導き、人間の救いに貢献する事柄を啓示したもうたことが生まれている。神的なものが啓示されたものは私たちのもとでは聖言である。

 

 

 

天界の秘義10321

 

聖言は神的なものから与えられた啓示であるためそれは全般的にも個別的にも神的なものである、なぜなら神的なものから発したものはそれ以外のものでは在りえないからである。

 

 

 

天界の秘義10322

 

神的なものから発したものは諸天界を経て人間のもとへ下降しており、それでそれは諸天界ではそこにいるう天使たちの知恵に適応しており、地上ではそこにいる人間の把握に適合したものとなっている。それで聖言には天使たちに対しては霊的なものである内意が在り、人間に対しては自然的なものである外なる意義が在るのである。ここから聖言により天界は人間と連続しているのである。

 

 

 

天界の秘義10323

 

聖言の純粋な意義は明るくされている者以外の者によってはたれからも把握されはしない、そして主に対する愛と主に対する信仰との中にいる者たちのみが明るくされるのである、なぜならこうした者たちの内部は主により天界の光の中へさえも挙げられるからである。

 

 

 

天界の秘義10324

 

 聖言の文字は、明るくされている者により聖言から作られた教義によらなくては把握されることは出来ない。なぜなら聖言の文字の意義は単純な人間にすら把握できるように調節されており、それで彼らは聖言から発した教義を燈として必要とするからである。

 

 

 

天界の秘義10325

 

聖言の書物は凡て内意を持っているのであり、内意を持たないものは聖言ではない。旧約聖書における聖言の書物はモーセの五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記前後書、列王記上下、ダビデの詩篇、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書であり、新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書と黙示録である。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P104

 

 わたしの建物の頂点である。わたしの言葉より高く、より真実な言葉はありえない。しかしわたしのはより小さな『言葉』を語る口に宿っている。のものであることを語るあらゆることはに吹き込まれた言葉なのだから。

 

 

 

 

 

2.霊的な意義が開示されなかった理由

 

 

真の基督教206

 

聖言の霊的意義を解く鍵である所の相応の科学は、それらの時代以後に啓示されなかったのは、原始教会の基督教徒達は極めて単純であって、それを理解することも利用することも出来なかったからである。それらの時代以後、暗闇が全基督教会を蔽ったが、それはまず教会内に流布した多くの異端的な見解の結果であり、その後間もなく現われた永遠からの三人の神的人格の存在に関する、また神エホバの子としてではなく、マリアの子としてのキリストの人格に関するニケア会議の教令と決議の結果であった。ここから現在の信仰義認の教義が生まれ、それによると人は三人の神に継続的に近づくのであり、これに現今の教会の凡ゆる物は、身体の手足が頭部に依存するように、依存しているのである。そして人々は聖言の凡ての物をこの誤った信仰を確認するために用いたために、霊的な意義は示されることは出来なかった。何故なら、もしそれが示されたならば、彼らはそれを同一の目的に用い、かくて聖言の聖さを冒瀆し、かくして完全に自らを天界から閉め出し、主をその教会から放逐したことであろう。

 

 

 

 

3.詩篇

 

 

天界の秘義1691

 

主の地獄に対する試練がヨナにより、彼がその大きな魚の腹の中にいたとき、このように予言的に記されているのである。聖言の他の記事にも、特にダビデの書にも同じようにそのように記されている。試練の中にいる者は地獄の中にいるのであって、場所は地獄の中にいることに何ら関係していないで、ただ状態がそれに関係しているのである。

 

 

 

 

5.反対の意義がある

 

 

新しいエルサレムの教義265

 

聖言の大半のものにはまた反対の意義がある(4816)。

 

 

 

天界の秘義3322

 

再三示したように、聖言では大半の名前にもまた対立した意義があるが、それは教会の中で善であり真であったその同じものが時の経過につれて色々と不善化されて悪い誤ったものへと腐敗してしまうからである。

 

 

 

天界の秘義4750[]

 

 天的なものと呼ばれているこの愛またはこの愛の善は善い意味のユダにより表象されるように、その対立した意味では天的な善に反し、かくて何であれ善のすべてに反したものがユダにより表象されている。聖言の大半のものには二重の意味があり、即ち、善い意味とそれに対立した意味がある。善い意味からそれに対立した意味の性質が知られるのである、なぜなら何であれその対立した意味に含まれているものはことごとく、善い意味に含まれているものには、真っ向から対立しているからである。

 

 

 

天界の秘義5268

 

『七』は聖いものを意味しているように、その対立した意味では汚れたものを意味している、なぜなら聖言の表現の大半にはまた対立した意味があり、そのことは、天界に起る同一の事柄が、地獄へ流れ下ると、それとは対立したものに変わり、事実、対立したものになるという理由によっているからである。ここから『七』により意味されている聖いものはそこでは汚れたものとなっている。

 

 

 

 

6.矛盾した記述

 

 

真の基督教226

 

エホバ悔い給う(出エジプト32・12、14、ヨナ3・9、4・2)

 

エホバは悔い給わず(民数記23・19、サムエル記前15・29)

 

 

 

白馬7

 

主は明るくされている者に真理を理解させ、互に矛盾しているように見える物を認識させられる(9382、10659)。聖言はその文字の意義では矛盾しているように見え、在る所ではそれ自身反駁しているようにも見える(9025)。それでそれは明るくされていない者により、何らかの見解または異端を確認して、世的な、形体的な愛を弁護するように、説明され、応用されることが出来るのである(4738、10339、10401)。

 

 

 

 

7.初めに言があった(ヨハネ1・1)

 

 

天界の秘義2894

 

 ヨハネの書に以下のように記されている―

 

初めに聖言が在った、聖言は神と共に在った、神は聖言であった。聖言は初めに神と共に在った。凡ゆる物はかれにより作られ、かれがなくては作られたものは一つとして作られはしなかった。かれの中に生命が在った、生命は人間の光であった。光は暗黒の中に現れている、しかし暗黒はそれを悟らなかった。聖言は肉となり、私たちのうちに住んだ、私たちはかれの栄光を見た、それは御父の独り児の栄光としての栄光であり、恵み〔恩寵〕と真理とに満ちていた(ヨハネ1・1−5、14)。

 

 僅かな者しか『聖言』によりここに意味されていることを知ってはいない。それが主であることは幾多の事項から明白である、が、内意は『聖言』により意味されているものは神的な人間的なものの方面の主であることを教えている。なぜなら以下のように言われているからである。『聖言は肉となり、私たちのうちに住まわれた、私たちはその栄光を見た』。神的な人間的なものが『聖言』により意味されているため、諸天界における主の王国と地上における主の教会のうちに在って、主に関係し、主から発しているところの真理がことごとくまた意味されている。そこから『彼のうちに生命が在り、生命は人間の光であって、光は暗黒の中に現れている』と言われているのである。真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され、かくてまた聖言それ自身が、または聖書が意味されている。

 

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

 真理の力はことごとく愛の善から発していることは、力を物質的にしか考えていない者らによっては把握されることは出来ない、それでこのかんの実情のいかようなものであるかを述べなくてはならない。諸天界では力はことごとく主の神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]から発しており、この真理から天使たちは力を得ているのである、なぜなら天使は主から発した神的な真理の受容体であるからである(1752,4295,8192番)。彼らがこの真理から得ている力により人間を人間から地獄を遠ざけることにより庇護しているのである、なぜなら一人の天使でも地獄から来ている一千の悪霊さえも征服しているからである。この力がペテロの鍵により意味されているものであるが、しかしそこに『岩』と呼ばれているペテロにより愛の善から発した信仰の真理の方面の主が意味されているのである(創世記22章序言、3750、4738、6000、6073、6344、10087番を参照)、『岩』は信仰の真理の方面の主を意味しているのである(8581番)。

 

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

神的な真理の力はヨハネ伝の『聖言』によってもまた意味されている―

 

凡ゆる物は聖言によって作られ、かれなしには作られた物は何一つ作られはしなかった(ヨハネ1・3)。

 

『聖言』が神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]を意味していることについては、前を参照されたい(9987番)、それでまた主は世におられたとき御自身を神的な真理[神の真理]とされたのであり、そのことがまた『聖言は肉となられた』によっても意味されている(14節)。主がそのとき御自身を神的な真理とされた理由は主は凡ゆる地獄と戦って、それらを征服し、かくしてそこの凡ゆる物を秩序付けられると同時に、諸天界の凡ゆる物も秩序付けられるためであったのである(9715,9809,10019,10052番を参照)。

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

善から発した真理には凡ゆる力があるが、反対に悪から発した誤謬には全く力がないことは他生では充分に知られている。そうした理由から世からそこへ来る悪い者は、説得的な信仰を剥奪され、同じく真理にかかわる知識も剥奪されて、その者の悪の誤謬に委ねられている。

 

 

 

天界の秘義10182[]

 

善から発した真理にはこうした力があることは、真理とその信仰とは単に思考に過ぎないと考えている者らからは把握されることは出来ないが、それでも人間の意志から発したその思考はその身体の凡ゆる力を生み出し、もしそれが主により主の神的な真理により生気を与えられるなら、人間はサムソンの力でさえも持つであろう。

 

 

 

 

8.主はみことば

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P45

 

 先生は大抵、口を開かず、ただ何かを教えたり、使徒たちの間違った考えを訂正したり、気の毒な人々を慰めようとするときだけ、話をする。イエズスは「みことば」であるが、決しておしゃべりではない。だれよりも忍耐強く親切である。

 

 

 

真の基督教263

 

如何にして、主は聖言にて在し給うかは僅かな者にしか理解されていない。何故なら、彼らは主は聖言によって、人類を照示し、教え給うことは出来るけれど、しかも聖言とは呼ばれることは出来ないと想像しているからである。然し、人間は各々彼自らの意志と彼自らの理解であり、かくして彼は他の人間から区別されることが理解されねばならない。而して、その意志は愛の受容器官であり、それ故その愛の凡ゆる善の受容器官であり、理解は智慧の受容器官であり、それ故その智慧の凡ゆる真理の受容器官である故、各人は自分自身の愛と自分自身の智慧であり、或は自分自身の善と自分自身の真理であることが推論される。その他のいかなる理由によっても人は人ではない、またこれ以外の如何なるものも人ではない。主について言えば彼は愛そのもの、智慧そのもの、また善そのもの、真理そのものであって、主は聖言のすべての善と真理を成就し給うことによって、かかる者になり給うたのである。何故なら、真理のみを考え、また語る者は、その真理となり、善のみを欲し、また行う者は、その善となるからである。かくして主は自然的な意義と霊的な意義における聖言の凡ゆる神的善と真理を成就することによって、善そのもの、真理そのものとなり、かくして聖言と成り給うたのである。

 

 

 

 

9.聖言には人間には理解出来ない無数の事柄が含まれている

 

 

新エルサレムの教義260

 

「聖言の内なるまたは霊的な意義には無数のアルカナ[秘義]が含まれている」。

聖言の内なる意義には人間には理解出来ない無数の事柄が含まれている(3085、3086番)。それにはまた説明しがたい物が含まれている(1965番)。

 

無数の事柄が聖言の凡ゆる事項の中に含まれており(6617、6620、8920番)、また凡ゆる表現の中にも含まれている(1689番)。主の祈りの中には、またその凡ての部分には無数の物が含まれている(6619番)。

 

 

 

天界の秘義2

 

 しかしながらキリスト教世界は聖言のすべての物には全体的にも、個別的にも、否、その最も微細な一点にすら至る最小の事項そのものの中にさえも、霊的な天的な物が意味されているという事実を今尚全く知っておらず、それ故旧約聖書は殆ど注意されていないのである。

 

 

 

天界の秘義771

 

 聖言の表現はことごとく主から発しており、それでその中に神的なものを持っているため、何事かを意味していない、また包含していない言葉は一つとしてなく、また一つの点でさえも存在していない。

 

 

 

天界の秘義1429

 

 聖言では一音節でも一イオタ[一点]でもことごとく内意を持っており、(後略)

 

 

 

天界の秘義1869

 

 聖言のただ一つの言葉にもいかに多くの事柄が存在しているかは思考の幾多の観念[考え]が開かれることにより私に示されたのである。他生ではこのことが、その観念そのものが形をとって目に見えて現われ、かくて画かれた映像のようにも現われて来るほどにもそのあるがままに行われることが出来るということは、顕著な事実である。この世における生活の間に仁慈の中にまたは相互愛の中に生き、聖言に非常な歓びを覚えていた者がそのようにその観念を開かれたのである。その時美しいものが無数に、心を魅了する甘美な、歓ばしいものとともに現われてきたのであり、またこのように目に見えて現われてくるものはさらにその内部を開かれることが出来るのであって、そしてその内部が開かれると幸福そのものを伴ったそれよりもさらに美しいまた歓ばしいものが示されると言われたのである。こうしたものが天使たちの観念のすべてである、なぜならその観念は主御自身から開かれているからである。

 

 

 

 

10.内意が書物を純粋な聖言に属するものとする唯一のもの・・ヨブ記について

 

 

天界の秘義3540

 

ヨブ記は古代教会の書物であることは、前に言ったように、その表象的な表意的な文体から明白である、しかしそれは主とその王国とを専ら取扱っている内意を持っていないため、律法と予言者と呼ばれている書物に属してはいないのである、なぜなら内意が書物を純粋な聖言に属するものとする唯一のものであるからである。

 

 

 

黙示録講解543ニ(16)

 

 

 

 

11.聖言は主について書かれている

 

 

ルカ24・27

 

そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 

 

ヨハネ5・39−40

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 

 

 

ヨハネ12・41

 

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。

 

 

 

天界の秘義3439

 

聖言の凡ゆるものは主に関わるものであるため

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P34

 

 初めに、ヨハネ、シモン、ユダに、私の誕生にまつわるもろもろの預言の意味を打ち明けました。それらの預言は、私の暁からたそがれまで世紀の画家でさえこうは描けないと思えるほど綿密に描写しています。預言者たちが最も力を入れたのが、ちょうどこの暁とたそがれです。

 

 

 

 

12.聖言には内意があること

 

 

天界の秘義9049(5)

 

 こうした言葉は文字の意義に従って理解してはならないことを、たれが認めることが出来ないであろうか。なぜならたれが(自分の)右の頬を打つ者に左の頬も向けようか。そしてたれが自分の上着を盗ろうとする者に外套も与えようか。そしてたれが求める者凡てにその財産を与えようか。そしてたれが悪に抵抗しないであろうか。

 

 

 

 

3.聖言の中身は無限

聖言の無限性

 

真の基督教290

 

 人間は聖言の性質を理解しない限り、彼はその凡ての細目に無限があることを、すなわち細目の凡ての中に天使自らも究め得ない無数のものが含まれていることを理解することは出来ない。その中の各々のものは一粒の種子に―その種子は大きな木となり、夥しい他の種子を生み出し、それらの種子から更に同じ木の群が生み出され、かくして無限に至るのであるが、―譬えることが出来よう。主の聖言はその凡ての部分に於いて、特に十戒に於いては、このようなものである。何故なら、これは神を愛し、隣人を愛することを教え、それ故全聖言の縮図であるからである。このことを主は以下によって教え給う。「神の国は一粒の芥子種の如し、人これを取り、その畑に播くときは、万の種子よりも小さけれど、育ちては、他の野菜よりも大きく、樹となりて、空の鳥来りてその枝に宿るほどなり」(マタイ13・31、32、マルコ4・31、32、ルカ13・18、19)。またエゼキエル書17・2−8を比較されよ。霊的な種子の無限性、すなわち聖言の諸真理の無限性は、凡て聖言から発して永遠に増大する天使たちの知恵によって明白である。而して、彼らは賢明になるに応じて、知恵は無限であることを認め、彼ら自身は単にその外庭に居るに過ぎず、極めて微細な事項に於いてすら、彼らが底無き深淵と呼ぶところの主の神的な知恵に決して到達することが出来ないことを明白に認めているのである。さて聖言は主から発している故、このような性質を持っている以上、その内容の凡てに或る無限性のあることは明白である。

 

 

14.主のみから一切を得た

 

啓示による黙示録解説・序言

 

それゆえ、私が何かを私自身から得たとは、または天使から得たとも信じてはならない、私は主のみから(一切)を得たのである。主もまた天使を通してヨハネに言われた―

 

この書物の予言の言葉を封じてはならない(22・10)

このことによってそれらが明らかにされなくてはならないことが意味されているのである。

 

 

天界の秘義6597

 

しかし内意はこれまで明らかにしたようなものであることはこれまで述べてきた凡ゆる細々としたことから明白であり、特にそれが天界から私に口授されたものであるという事実から明白である。

 

 

真の基督教779

 

「主の再臨は一人の人間を媒介として起こりつつある、主は新しき教会の教義をその聖言によって教えるために、この人間に自らを親しく示し、彼をその霊を以って満たし給うた。」

 

上述したように、主は自らを親しく顕し給うことは出来ない。しかも主は自ら来たって新しいエルサレムなる新しい教会を創設するであろうと予言し給うた。それ故主はこの事を、単にこの教会の教義を理解し得るのみでなく、更にこれを印刷し公にすることの出来る人間によって為し給うであろうことが推論される。主は御自らをその僕なる私に顕し、私をこの務めに遣わし給うたことを私は厳かに宣言する。主は私の霊の眼を開き、かくして私を霊界に導き入れ給うた。主は私に諸々の天界と諸々の地獄とを眺め、天使と霊と共に語ることを許し給うた、しかしてこれは数年間今も尚継続しているのである。更に、私はその召命の最初の日から、新しい教会の教義に関わるものを如何なる天使からも受けず、私が聖言を読みつつある間に主のみから受けたのである。

 

 

15.聖言は天と地を結合する手段

 

新エルサレムの教義259

 

聖言は天と地を結合する手段である(2310、2495、9212、9216、9357番)。

 

 

白馬10

 

聖言は天と地を結合する手段である(2310、2493、9212、9216、9357)。

 

天界は聖言を通して人間と連結している(9396、9400、9401、10452)。それで聖言は契約と呼ばれている(9396)。なぜなら契約は連結を意味するから(665、666、1023、1038、1864、1996、2003、2021、6804、8767、8778、9396、10632)。

 

白馬10

 

「聖言の内意は特に主として天使たちのために存在し、また人間のためにも存在している」。

 

天使たちは霊的に考えるのみでなく、また霊的に語っていること、彼らはまた同じく人間のもとに居ること、彼らは聖言により人間と連結していることは、「天界と地獄」を扱った著作に見ることができよう、そこでは天界の天使たちの知恵が265−275に取扱われ、その言葉は234−245に、彼らの人間との連結は291−302に、聖言による彼らの連結は303−310に取扱われている。

 

 

真の基督教267

 

 主を知らしめる聖言を持つ教会が地上に存在しない限り、天界との結合は有り得ない。何故なら、主は天と地の神であり、彼無くしては救いは無いからである。主との結合及び天使たちとの連りは聖言によって生まれることは、上述したことによって明らかである(234−240番)。然し、教会はもしそれが聖言を持つならば、それは如何に微小であっても充分である。何故なら、主は聖言によって全世界に隈なく臨在し、天界は人類と連なるからである。

 

 

 

 

天界と地獄304

 

それゆえ人間が天界と連結していると言われるとき、人間が主と連結し、天使たちと交わっていることが意味されている。なぜなら天界は天使たち自身のものであるものによって天界とはならず、主の神的なものにより天界となっているから。

 

 

天界の秘義2310

 

それでも聖言はそのことから聖いのではなく、その中には天的な神的なものである内意があるために聖いのであり、その内意のために聖言は天界を地に、すなわち、天使の心を人間の心に結合させ、かくしてこの後の者を主に結合させているのである。

 

 

天界の秘義4217[3]

 

 聖言の凡てのものの場合も同じであり、それで聖言は人間を主に結合させる手段である。このような結合させる手段がない限り、天界は人間のもとに流れ入ることは出来ない、なぜなら手段がないなら合一はなく、天界は人間からそれ自らを遠ざけてしまい、そしてもしそれが遠ざけられるなら、たれ一人もはや善へ、形体的な世的な善へすら導かれることは出来なくなり、いかようなものであれ、凡ゆる絆が、その外なるものでさえもが破壊されるであろうから。なぜなら主は善の中にいる人間を良心のものである内なる絆により支配されているが、しかし悪の中にいる者は外なる絆によってのみ支配されており、もしそれが仮にも破壊されるなら、このような人間はことごとく狂ってしまい、実に法律を怖れない、自分の生命を恐れない、また名誉と利得を失うことも怖れない人間のようになり―なぜならこうした恐れが外なる絆[拘束物]であるからであるが―かくて人類は死滅してしまうからである。この凡てからなぜ聖言が存在しているかを、また聖言の性格はいかようなものであるかを認めることが出来よう。(聖言が存在している主の教会は心臓と肺臓のようなものであり、聖言が存在していない主の教会は心臓と肺臓とから生きている他の内臓のようなものであることは、前の637、931、2054、2853番に見ることが出来よう)。

 

 

天界の秘義5329

 

なぜなら天使たちは、歴史的なものそのものは世のものである事柄であって、天界のものである事柄ではなく、そして世の物は彼らには現れないため、その歴史的なものを決して認めることは出来ないからである。それでも世の凡ての物は天界のものと相応しているため、天使たちは人間が世の物を認めるとき天界の物を認めるのである。もしそれが事実でないなら、天界から天使たちは一人として決して人間と共にいることは出来ないのである。しかし天使たちが人間と共にいることが出来るように、聖言が与えられたのであり、その中に天使たちは神的な聖いものを認めて、それをその天使たちがそのもとに共にいる人間に伝達することが出来るのである。

 

 

天界の秘義9212

 

このことからもまた主がいかように話されたか明白である、すなわち聖言を手段として天界と世とが連結するようにとの意図の下に各々の言葉の中には内意が存在したのである、なぜなら聖言がないなら、すなわち、啓示された神的真理がなくては、連結は存在しないのであり、もし連結がないなら、人類は滅亡してしまうからである。

 

 

天界の秘義9216

 

この聖言により人類は絶えず諸天界と関連しているのである。それゆえ聖言の細目の各々の中には内意が存在し、それは天界のためのものであり、天使たちの心を人間の心に、その両方の心が一つとなって活動するほどの密接な絆により結びつける性質を持っているのである。このことから内的なものが究極的なものの上に静止する[基礎づけられる]実情のいかようなものであるかが再び明白となっている。

 

 

天界の秘義9357

 

主により天界を通して与えられた、私たちの地球上の聖言は天界と世とを結合させるものであることを知られたい(9212番を参照)、その目的のために聖言の文字における凡ゆる物は天界の神的なものに相応しており、聖言はその最高の、最も内なる意義では主を、諸天界と地上の主の王国を、主から発し、また主に対する愛と信仰とを、従って主から発し、また主における生命を取り扱っているのである。私たちの地球の聖言が読まれ、説かれもすると、こうした事柄が天界の天使たちに、その天使たちはいかような地球から来ていようとも、示されるのである。

 

 

聖書63

 

文字の意義によって天界の天使たちと共になることが出来る理由は、その中に霊的な意義と天的な意義とが在って、天使たちはその(二つの)意義の中にいるということである。すなわち霊的王国の天使たちは聖言の霊的意義の中に、天的王国の天使たちはその天的意義の中にいるということである。これらの意義は、文字の意義である聖言の自然的な意義から、真の人間がその意義の中に止まっている間に、(天使たちにより)展開されるのである。その展開は一瞬にして行われる、従ってその(天使たちと)共になることもまた一瞬にして行われる。

 

 

新エルサレムの教義259

 

聖言は主から三つの天界を経て人間にまでも降ったため、聖言の中には内なる意義が在る(2310、6597番)。そのことによってそれは三つの天界の天使にも、また人間にも適応している(7381、8862番)。

 

 

主、新しい教会に招きたもう44

 

 これは世の創造以来これまでに与えられたすべての啓示にも勝るものである。この意義を通して人間と天界の天使たちとの間に交流が開かれており(後略)

 

 

16.極めて些細な言葉であっても冗漫で空虚なものは一つとしてない

 

天界の秘義734

 

 しかしここには他の箇所のように極めて些細な言葉であっても冗漫で空虚なものは一つとして無いのである。なぜならそれは主の聖言であるからである。それ故繰返しがあれば必ずそこには他の意義が含まれているのである。そしてここでは、事実、前のように、その意義は、それが最初の試練であって、彼の理解の事柄の方面の試練であるが、しかし後ではそれは意志の事柄の方面の彼の試練であるということである。これらの試練は再生することの出来る人間の許に次々に起ってくる。なぜなら理解の事柄の方面で試みられることは意志に属した事柄の方面で試みられることとは全く異なっているからである。理解の事柄の方面の試練は軽いが、しかし意志の事柄の方面の試練は苛烈である。

 

 

17.霊感を受けている

 

天界の秘義1756[4]

 

そして彼らの言葉が主の王国と教会との天界的なものを意味していることを理解しまたは知った者は極めて僅かしかいなかったものの、それでも彼らは尊崇の畏怖感を受け、またその感情に浸透されて、神的な聖いものがその中にあることを感じたのである。

 

 

天界の秘義1756[5]

 

しかし聖言の歴史的なものもこれに類似していることは―すなわち各々の名も各々の言葉も主の王国の天的なものと霊的なものとを表象し、意味していることは―未だ学界に知られてはいないのであって、ただ聖書はその最小の一点さえも霊感を受けており、その凡てのものの中には全般的にもまた個別的にも天界のアルカナが存在しているとのみしか知られていないのである。

 

 

18.天的なものが語られているときは、霊的なものもまた語られている

 

天界の秘義1826

 

 聖言に、特に予言の部分には、天的なものが語られているときは、霊的なものもまた語られており、そのようにして二つのものは連結しているが、それは(前の639、680、683、707、793、801番に言ったように)その一方のものは他方のものから発しており、かくてその一方のものは他方のものであるためである。

 

 

19.ついにそれは主の前に人間の映像として示される

 

天界の秘義1871

 

 文字の意義の中には秩序を欠いては現われないものは殆ど何一つ無いが、しかしそれが人間により読まれる時、特に小さな少年や少女により読まれる時は、それが昇るにつれ、徐々に益々美しいまた歓ばしいものとなり、遂にはそれは主の前に人間の像として示されるのであり、その映像の中にまたその映像によって天界は、その全総合体において示されているのである、すなわち天界がそのあるがままに示されるのではなくて、主からそれがあるように望まれているままに、すなわち、主御自身に似た形として示されているのである。

 

 

20.聖言の文字の意義は主の天的な霊的なものを容れる容器

 

天界の秘義1888

 

 聖言の文字の意義は神的なアルカナを表象するものであり、またそれは主の天的な霊的なものを容れる容器であり、かくてその貯蔵庫であることは二つの例により説明することが出来よう、先ず『ダビデ』によりダビデが意味されてはいないで、主が意味されており、第二に名は実際の事柄以外には何ごとも意味してはおらず、それで聖言の他のすべてのものもまたそれと同じものであるに違いないということである。

 

 

天界の秘義3432

 

聖言の文字の意義は三重のものとなっており、すなわち、歴史的なもの、予言的なもの、教義的なものとなっていて、その各々は外なるものの中にいる者らによってさえも把握されることが出来るものとなっているのである。

 

 

21.洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会に属している凡ゆる者に啓示された

 

天界の秘義2896

 

 洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会に属している凡ゆる者に啓示されたのである。なぜなら彼らは天的な人たちであり、それで天使たちのように善と真理とを認識し(さらに彼らはその天使たちとも交わってもいたのであるが)、それで彼らは聖言をその心の中に記されていたのである(その事柄については、597、607、895、920、1114−1125番を参照されたい)。

 

 

22.真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され

 

天界の秘義2894

 

 ヨハネの書に以下のように記されている―

 

(ヨハネ1・1−5、14)。

 

 僅かな者しか『聖言』によりここに意味されていることを知ってはいない。それが主であることは幾多の事項から明白である、が、内意は『聖言』により意味されているものは神的な人間的なものの方面の主であることを教えている。なぜなら以下のように言われているからである。『聖言は肉となり、私たちのうちに住まわれた、私たちはその栄光を見た』。神的な人間的なものが『聖言』により意味されているため、諸天界における主の王国と地上における主の教会のうちに在って、主に関係し、主から発しているところの真理がことごとくまた意味されている。そこから『彼のうちに生命が在り、生命は人間の光であって、光は暗黒の中に現れている』と言われているのである。真理が『聖言』により意味されているため、啓示がことごとく意味され、かくてまた聖言それ自身が、または聖書が意味されている。

 

23.内意を持つため

 

白馬10

 

天使たちの思考の観念とまた言葉とは霊的なものであるが、しかし人間の観念と言葉とは自然的なものである、それで天使たちに用いられるために、霊的な意義である内意が存在している、そのことが経験から説明されている(2333)。

 

白馬10

 

聖言の内意に関係した物は天界の光に属した物となり、かくて天使に認識される(2618、2619、2629、3086)。

 

 

天界の秘義2899

 

 その後ユダヤ教会に聖言が続いて起り、それも同じように表象的なものと表意的なものとにより記されたが、それはその聖言がその内に天界に理解されている内意を持つためであり、かくて聖言により交流[伝達]が生まれ、諸天界における主の王国が地上における主の王国に結合するためであったのである。聖言における凡ゆるものが、また聖言における凡ゆるものを記している言葉がことごとく主にかかわる神的なものを表象し、意味していない限り、かくて主の王国に属している天的なものと霊的なものを表象し、意味していない限り、聖言は神的なものではなく、それは神的なものであるため、他のいかような文体によっても到底記されることは出来ないのである。なぜならその文体によってのみ、人間の事柄と人間の言葉とが、その最小の一点に至るまでも、天界の事柄と天界の観念とに相応するからである。もし聖言が小さな子供によってさえ読まれても、その中にある神的なものが天使により認識されるのはこのことから発しているのである(1776番)。

 

 

天界の秘義2900

 

福音書に在る新約聖書の聖言については、主は神的なものそれ自身から語られたため、主により語られた幾多の事柄は、前に豊かに示されたように、神的なものを、引いては主の王国と教会とを表象し、また意味したのである。

 

 

24.天的な教会が存在した最古代には聖言は存在しなかった

 

天界の秘義3432[2]

 

 聖言については実情は以下のようになっている、すなわち、天的な教会が存在した最古代には聖言は存在しなかったのである、それはその教会の人々は心に聖言を刻み付けられていたためである、なぜなら主は天界から直接に彼らに何が善であるかを教えられ、またそこから何が真であるかを教えられて、彼らに愛と仁慈から認めさせもされ、また啓示から知らされもしたからである。彼らには聖言そのものが主であったのである。この教会の後に、天的なものではなくて、霊的なものである他の教会が続いたが、最初この教会は最古代の人々から集められた聖言以外の聖言を持っていなかったのであり、その聖言は主を表象し、主の王国を意味するものであり、かくてその内意が彼らには聖言そのものであったのである。(彼らはまた、今は最早存在していないが、歴史的なものでもあり、予言的なものでもあったところの、書かれた聖言を持っていたこと、その中には同じように主に関わりのある内意が在ったことは、前の2686番に見ることが出来よう)。ここから教会の中では神的な事柄について、教会の外では他の事柄について表象的なものと表意的なものとにより話しもし、書きもすることが当時の知恵となったが、そのことは私たちのもとに残っているその古代の人々の書いたものから明白である。しかし時が経つにつれこの知恵は滅んでしまって、遂には彼らは聖言の書にすら何らかの内意が在ることを知らない程にもなったのである。ユダヤ民族とイスラエル民族とはここに言及された性格を持っていて、予言的な聖言をそれが古代の響きをもっているという事実から聖いものと考えて、エホバの御名を文字の意義で聞きはしたが、神的なものが何かその中に深く隠れていることは信じなかったのであり、基督教世界もまたそれ以上恭々しくは聖言を考えはしないのである。

 

 

天界の秘義3432[3]

 

 このことから私たちはいかようにして時が経つにつれ知恵は最も内なるものから最も外なるものへと後退したかを、人間は天界から自分自身を遠ざけてしまって遂には地の塵埃にさえも降って、その塵埃の中に今や知恵を置いていることを認めることが出来るのである。聖言にこのようなことが起こり、そのためその内意は継続的に抹消されてしまって、現今ではその意義こそ聖言そのものであって、その中に神的なものが最も近く住んでおられるのに、そのような意義があることが知られていない程にもなっているため、それでそれに続いている幾多の状態が本章に記されているのである。

 

 

25.かれが途方にくれる所では、他の記事から理解を与えられる

 

天界の秘義3436

 

ここに『ベエル シバ』により意味されている信仰の教義は、聖言の文字の意義そのものである、なぜなら聖言は教義そのものであるからである、そして聖言はその文字の意義の方面では真理がそこから引き出されることができるようなものであるけれど、異端の存在から良く知られているように、それはまた真理でない事柄がそれにより確認されることができるようなものである。しかし賢明になるために、すなわち、善いことを為し、真の事を理解するために聖言を読む者は、その目的と情愛とに従って教えられるのである、なぜならかれには知られないままに主は流入されてかれの心を明るくされ、かれが途方にくれる所では、他の記事から理解を与えられるからである。

 

 

天界の秘義3436[2]

 

 さらに単純な善の中におり、また単純に聖言をその文字の意義に応じて信じている人間は、他生で天使たちから教えられると真理を認識する能力を与えられるのであり、その間[それまでは]その者のもっている僅かな真理も仁慈と無垢とにより生かされ、そして仁慈と無垢とが真理の中に存在しているときは、その者の無知の蔭にそれ自らを注ぎこみもしたところの誤謬は有害ではないのである、なぜならその誤謬は善に接合されてはいないで、そこからいわば円周の中に遠ざけられており、容易に放逐され得るからである。しかしながら生命の善の中にいない者らの場合は非常に異なっている、なぜならかれらのもとではかれらが誤った解釈により聖言から孵化したいくたの誤謬はいわば真中をまたは中心を占めており、真理は周囲をまたは円周をしめていて、それで誤謬は彼らの生命の悪に接合されて真理は消散されるからである。

 

 

26.その内意の中にいる天使たちの情愛が伝達されるため、かれを感動させるために、聖言が人間に与えられている

 

天界の秘義5247[7]

 

 この凡てから聖言の細目はすべて聖いものであることが明白であるが、しかし、その中の聖さは、その内意を知っている者をのぞいては、何人にも明らかに理解されはしないのであるが、それでもそれは、聖言は聖いものであると信じている者には、天界からの流入により認識されるようになっている。この流入は天使たちがその中にいる内意を通して行われており、この内意はその人間によって理解はされないものの、それでもそれは、その内意の中にいる天使たちの情愛が伝達されるため、かれを感動させるために、聖言が人間に与えられていることが明らかである。

 

 

27.聖言は同一である

 

天界と地獄259

 

 天界に文書が在ることは聖言のために主により定められたのである、なぜなら聖言はその本質では神的真理であり、そこから人間と天使における天界的知恵の一切が発しているからである、それは聖言は主から口授され、主から口授されたものは秩序正しく諸天界を経て、人間のもとで終結しているためである。かくて、それは天使たちの持っている知恵にも、人間の持っている理知にも適応している。そこから天使たちもまた聖言を持っていて、地上の人間と同じようにそれを読んでおり、そこからまた天使たちの教義的なものが生まれ、そこから彼らは教を宣べている(221)。聖言は同一である。しかしながら我々の文字の意義であるその自然的な意義は天界にはなくて、その内意である霊的意義がある。その意義の何であるかは、黙示録に語られている白馬を取扱った小さな論文に見ることができよう。

 

 

28.再生した人間は、自らが聖言の霊的な意義の中にいて、そこから明るくされていることを知っていない

 

白馬10

 

再生した人間は、自分ではそれとは知らないけれど、事実聖言の内意におり、その聖いものにいる故、死後自ずからその中へ入って、もはや文字の意義にはいない(3226、3342、3343)。内なる人の観念は霊的である、しかし人間は世に於けるその生活の間はそれに注意しない、なぜならそれは彼の自然的な思考の中に在って、それにその合理的な能力を与えているからである(10236、10240、10550)。しかし人間は死後その自分の霊的な観念へ入って行く、また語りもするからである(2470、2478、2479、10568、10604)。かくて、すでに述べたように、再生した人間は、自らが聖言の霊的な意義の中にいて、そこから明るくされていることを知っていない。

 

 

29.聖言は一点一画もことごとく神的な聖いものである

 

白馬6

 

聖言はその個々の一切の部分において神的なものである(639、680、10321、10637)。聖言は一点一画もことごとく神的な聖いものである、経験から(1349)。聖言は一画といえどもすべて霊感を受けたものであることは、現今如何ように説明されているか(1886)。

 

白馬11

 

原語では、聖言の文字の一点にも凡て聖いものが在る、(そのことは)天界から示された。「天界と地獄」を扱った著作を参照されよ(260)、そこには主の以下の語が説明されている。

 

 律法の一点一画もすたることはない(マタイ5・18)

 

 

30.主の神的摂理により、聖言は凡ての点で全く完全に保存されている

 

白馬11

 

聖言の原語では、その文字の意義からは、ただ一つの表現も、またただ一つの点も、その内意を害うことなしには取り去られることはできない、それで、主の神的摂理により、聖言は凡ての点で全く完全に保存されている(7933)。

 

 

31.聖言は(人が)聖言を通して天界と連なり、また連結するためにはそれ以外の文体で記されることはできなかった

 

白馬12

 

聖言は(人が)聖言を通して天界と連なり、また連結するためにはそれ以外の文体で記されることはできなかった(2899、6943、9481)。

 

 

32.聖言は記されたからには、主はそれにより人間に語られる

 

新しいエルサレムの教義263

 

主は聖言を通し、その内なる意義によって人間と連結される(10375番)。主は聖言の一切の物により人間と連結されている、それで聖言は他の凡ての文書にもまさって驚嘆すべきものである(10632−10634番)。聖言は記されたからには、主はそれにより人間に語られる(10290番)。

 

 

33.何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです

 

ペトロ2・1・20−21

 

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 

 

 

34.聖言は単に人間のためのみでなく、霊たちと天使たちのためにも記されている

 

天界の秘義6757

 

「彼らの重荷を見」。これは彼らが誤謬に取り憑かれて悩まされていたことに気づいたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『見ること』の意義は気づくことであり(そのことについては前の6732番を参照)、『重荷』の意義は誤謬に取り憑かれて悩まされることである、なぜならパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷はそれ以外のものではなかったからである。『パロ』は誤った記憶知を意味し(6651、6679、6683番)、誤謬に取り憑かれて悩まされることは真理の中にいる者たちにとっては重荷以外の何物でもないのである。真理の中にいる者たちの重荷であるところの、誤謬に取り憑かれて悩まされることにおける実情のいかようなものであるかは、人間にはこの世に生きている間では知られることは出来ない、なぜならその心はその時は幾多の誤謬に執着しているか、またはそれらを払い落とすか、しており、しかもそれが取り憑かれて悩まされることを感じもしないでなされるため、彼はそのように取り憑かれて悩まされはしないからである。しかし他生では真理の中にいる者たちが誤謬に取り憑かれて悩まされると、その時は彼らは悪霊のために、誤謬の中に謂わば縛りつけられるのであるが、しかしその心の内部は主により真理の中に留められ、その真理によってその誤謬は払い落とされるのである。他生に存在するような、誤謬に取り憑かれて悩まされる状態が、他の多くの事柄のように、ここに内意に意味されているのである、なぜなら聖言は単に人間のためのみでなく、霊たちと天使たちのためにも記されているからである。

 

 

35.聖言の最も内なる、または最高の意義では、主のみが、またその人間的なものの栄化が取扱われている

 

天界の秘義6827

 

聖言全体の中には、その最も内なる、または最高の意義では、主のみが、またその人間的なものの栄化が取扱われているが、しかしその最も内なる、または最高の意義は人間の理解を超えているため、聖言をその内意の方面で明らかにすることが許されており、その内意では主の王国と教会とが、教会を設立することが、また主による教会の人間の再生が取扱われているのである。これらの主題が内意で取扱われていることは人間の再生は主の栄化を表象している映像であるためである(3138、3212、3245、3246、3296、3490、4402、5688番)。

 

 

36.聖言はそれ自身では、主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義以外の何ものでもない

 

天界の秘義7262

 

 聖言はそれ自身では、主もまた(以下のように)教えられているように、主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義以外の何ものでもないのである―

 

 あなたはあなたの神、主をあなたの心情の凡てから、またあなたの魂の凡てをもって、あなたの心の凡てをもって愛さなくてはならない。これは最初の、また偉大な戒めである。第二もそれに似ている。あなたは隣人をあなた自身のように愛さなくてはならない。この二つの戒めに律法と予言者とは懸かっている(マタイ22・37−40)。

 

 

 

37.モーセが祈願したことは実際モーセの口から発してはいたものの、主から発していた

 

天界の秘義7406

 

 モーセが祈願したことは実際モーセの口から発してはいたものの、主から発していたのである。なぜなら何であれ人間が考えてそれから話すことは、また何であれ人間が欲してそれから為すことは凡て流れ入っており、その人間は単に受容器官にすぎず(6189−6215、6307−6327、6466−6495、6598−6606、6613−6626)、モーセが話しもし、行いもしたことも全くそれと同じであったからである。

 

 

 

38.予言者たちは内意の意味していることを何ら認識しなかった

 

天界の秘義7055〔3〕

 

 他の例として聖言が書かれる媒介者となった予言者たちを考えられたい。彼らは神的なものから遣わされた霊が口授するままに書いたのである、なぜなら彼らの記した言葉そのものは彼らの耳元で語られたからである。彼らのもとには神的なものから、即ち、天界を通して間接に発出している真理はあったが、しかしそうした理由から、神的なものから直接に発出している真理は無かったのである、なぜなら彼らはその細々とした事柄の凡てがその内意に意味していることを何ら認識しなかったからである。

 

 

 

 

39.「神を見る」ことは聖言の中にのみ起る

 

 

天界の秘義9411

 

「彼らは神を見た。」これが信仰を意味していることは、『神を見ること』の意義から明白であり、それは理知と信仰を与えられることである、なぜなら内意では『見ること』は霊的に見ることであり、霊的に見ることは信仰から見ることであり、ここから聖言では『見ること』は信仰を持つことを意味しているからである(2325、3863、3869、4403−4421、5400、6805、9128番)。彼らがイスラエルの神を、即ち、主を見たことは、シナイ山から布告された律法は広い意味では聖言の全総合体を意味し、聖言は主から発した神的真理であり、それはその最高の意義では主のみを取り扱っているためである。それで聖言を読んでいる時明るくされている者たちは主を見まつるのであり、そのことは信仰から、また愛から起るのである。このことは聖言の中にのみ起るのであって、他のいかような文書の中にも起りはしないのである。

 

 

 

 

40.モーセの五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記前後書、列王記略上下、ダビデの詩篇、予言者イザヤ、エレミア、哀歌、エゼキエル、ダニエル、ホゼア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナオム、ハバクク、ゼパ二ア、ハガイ、ゼカリア、マラキであり、新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書と黙示録

 

 

新しいエルサレムの教義266

 

「聖言の書は何であるか」

 

聖言の書は内なる意義を持ったものすべてであるが、しかし内なる意義を持たないものは聖言ではない。聖言の書は、旧約聖書では、モーセの五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記前後書、列王記略上下、ダビデの詩篇、予言者イザヤ、エレミア、哀歌、エゼキエル、ダニエル、ホゼア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナオム、ハバクク、ゼパ二ア、ハガイ、ゼカリア、マラキであり、新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書と黙示録である。他は内なる意義を持っていない(10325)。