聖言の文字上の意義

 

 

天界の秘義4783

 

なぜなら文字の意義には全般的なものがあって、その全般的のものは容器のようなものであって、真理を、また誤謬を満たされることができるのであり、かくてそれは何ごとでも支持するように説明されることができるからであり、それらは全般的なものであるため、内意以外のいかような源泉からも光を得ないため、比較的明確さを欠いているのである、なぜなら内意は天使たちに対する聖言であるため、天界の光の中に在るが、文字の意義は世の光の中に在るからである、なぜならそれは人間が主から発している光の中へ入ってくる以前の人間のための聖言であり、人間は天界の光の中へ入ったときそこから明るくされるからである。このことから文字の意義は単純な者が内意に入れられるために役立っていることが明白である。

 

 

 

 

聖書48

 

「聖言の栄光は御形を変えられた折の主により表象された」。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に御形を変えられた主については以下のように記されている、

 

 その御顔は陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。モーセとエリヤとがかれと語りつつ現れた。輝いた雲がその弟子たちを影らせた。その雲から声が聞こえて、言った、これはわたしの愛する子である、これに聞きなさい(マタイ17・1−5)。

 

 わたしは以下のように教えられたのである、すなわち、主はそのとき聖言を表象され、『陽のように輝いたその御顔』は主の神的善を、光のようになったその衣は主の神的真理を、『モーセとエリヤ』は歴史的な予言的な聖言を、『モーセ』はかれにより書かれた、全般的に歴史的な聖言であった聖言を、『エリヤ』は予言的な聖言を、『弟子たちを影らせた輝いた雲』は文字の意義における聖言を表象したのであり、それでこの雲から声が聞こえて、『これはわたしの愛する子である、これに聞きなさい』と言われたのである。なぜなら天界からくる言葉と答えはすべて聖言の文字の意義に在る最も外なる物[究極的な物]により専ら行われるからである。なぜならそれは主から完全なものとして作られているからである。

 

 

 

聖書49

 

以上私たちは聖言の文字の意義である自然的な意義において聖い、完全なものになっていることを示した。この意義において聖言はまたその力を発揮することを示すために今若干述べてみよう、諸天界における、また地上における神的真理の力はいかに大きなものであるか、またいかような性質を持っているかは、天界の天使たちの力について「天界と地獄」の著作の中で述べたことから明白である(228−233)。神的真理の力は特に誤謬と悪に向けられ、かくて地獄に向けられている。これらと戦うことは聖言の文字の意義から発している真理によって行われなくてはならない。さらに主が人間を救われる力を持たれるのは人間における真理によっているのである、なぜなら人間は聖言の文字の意義から発している真理によって改良され、再生されると同時に地獄から引き出されて、天界へ導き入れられるからである。この力を主は、聖言の凡ゆる物をその最も究極的なものにいたるまでも成就された後、その神的な人間的なものの方面においてすらも、御自身に得られたのである。