聖言の一貫性

 

 

天界の秘義2607[2]

 

 これらの歴史的なものを記している言葉の各々が表象的なものであることもまた、例えば名前は実際の事柄を意味していることについて示されたことから、かくて『エジプト』は記憶知を、『アッシル[アッシリア]』は合理的なものを、『エフライム』は理知的なものを、『ツロ』は知識を、『シオン』は天的な教会を、『エルサレム』は霊的な教会を意味しているといったことから明白である。そのことはまた言葉についても示された、例えば『王』は真理を、『祭司』は善を意味し、その他の言葉にもことごとくそれぞれ内意があり、例えば、『王国』『都』『家』『国民』『民』『庭園』『ぶどう園』『オリーブ園』『金[黄金]』『銀』『銅』『鉄』『鳥』『獣』『パン』『ぶどう酒』『油』『朝』『日』『光』にはそれぞれ内意があり、しかもそのことは、歴史的な書物の中にも予言的な書物の中にも ―たとえその書物は色々な人々と色々な時代に書かれはしたが― 一定して守られており、こうした一定性は聖言が天界から降らなかったかぎりは、あり得ないものである。このことから聖言には内意があることを知ることができよう、また同じくそのことは以下の事実からも知ることができよう。すなわち、神的な聖言[神の言]は、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして(諸国民の中でも最悪なものであった)かれらの子孫、かれらの王、その妻、その息子、その娘といった単なる人間をとり扱うはずはないのであり、また、娼婦、掠奪といった事柄をとり扱うはずはないのであり、そうしたものは、それ自身において考察されるならば、それらのものにより主の王国にあるようなものが表象され、意味されていないかぎり、聖言に記される価値さえもないのであり、聖言に価するものはただ主の王国にあるこうしたもののみである。